広島の史跡探訪 6月のブラアリタのお知らせ
2019年06月18日
6月22日(土) いつもの様に午後1時半 カモメに集合。
少雨決行。
参加費 200円+1ドリンクオーダー(ビールなどお持ち帰りされてもOK)
レジメ (広島城外堀跡碑→旧平田屋町・鉄砲屋町→とうかさん→雑魚場荒神堂→広島県立広島第一高等女学校跡→袋町)
1源太堀: 広島城八丁堀の排水、縮景園の小川から流れる流川と薬研堀につながり広島城の防禦機能と江戸時代の水道設備と考えられる。
2広島城外堀跡碑
住民の増加による、広島城の堀の汚水による伝染病問題を解決するため、明治41年(1908)に埋め立てを決定。『広島電気軌道』が明治43年(1910)、広島駅-己斐間(現在の本線)、土橋-中島新橋-鷹野橋-御幸橋間(現在の宇品線の一部)、八丁堀-竹屋町-御幸橋間(実現せず)、十日市-横川間(現在の横川線)の路線敷設の特許を取得。その後、八丁堀-竹屋町-御幸橋間を紙屋町を経由する案に変更、八丁堀-白島(現在の白島線)の特許も取得。なお明治44年(1911)11月には城の外堀埋立が終わり電車通りとなる相生通りや鯉城通りが整備された。大正元年(1912)11月、市内電車が、広島駅-紙屋町-相生橋線など3路線で開通し、従来の乗合馬車に代り市内の主要交通機関となった。
3福屋
①昭和4年(1929)、広島県で初の百貨店として創業、昭和13年(1938)に現在地に新店舗として開館。原爆の被害を受けた八丁堀本店は、現存する数少ない被爆建造物である(爆心地より710m)。
②松竹東洋座・広島名画座 東館のある地には、平成20年(2008)まで100年近くにわたり松竹系の映画館があった。東館8階には、松竹系封切館の『松竹東洋座』と、独立系の封切などを主に上映した『広島名画座』が設けられた。松竹東洋座は大正5年(1916)に創設した「日本館」が前身で昭和25年(1950)に改築し「東洋座」と改称。美空ひばりなどの歌謡ショーが行われていた時期もあった。松竹東洋座の閉館後、しばらくは空き家だったが、平成22年(2010)に映画館「八丁座」に生まれ変わった。
4広島中の棚稲荷神社
①宝暦8年以後の勧請で”中ノ棚稲荷”はもと餅屋某という者の鎮守であったものと伝えられるが、今は広くこの辺一帯の商売人の信仰の中心となって栄えている。弘化年間(1844~48)沼田郡狐瓜木稲荷、白島宝勝院稲荷、稲荷町稲荷、円隆寺稲荷、後松原七本松稲荷とともに有名だった。
②魚市場のあった中の棚(現立町)昔、広島城下に三軒の魚問屋があり西魚屋町と京橋町と東魚屋町。ここはその中間にあたっていたので”中ノ棚”ともいって、市中で一番古い歴史を持つ魚市場。元和5年(1619)浅野長晟が紀州より入府するとき、御肴御用商人「天満屋治兵衛」と「七右エ門」が随行し、東魚屋町に住み代々魚問屋を業としていた。その後海田屋、周防屋、阿賀屋、吉田屋などの魚問屋が軒を並べた記録がある。またここにはカマボコ商も数軒あって商売は繁栄した。
③地面の下60㎝の所に遺跡として江戸時代初期に造られた中の棚遺跡が保存されているとのこと。④町の東は八丁堀の水が南に通じて、堀川町を南に向かって竹屋川として流れていた。
5旧平田屋町・鉄砲屋町
①平田屋川: 天正17年(1589)広島城築城の際の資材運搬のために掘削された。出雲国平田(島根県平田市)出身の大商人平田屋惣右衛門(旧尼子家家臣)が毛利・福島氏に呼ばれ築城や城下の建設に功績、屋敷を賜ったあたりが平田屋町で、近くの川と橋(平田屋橋)にその名が付けられた。子孫は江戸時代6代目まで船年寄として平田屋町に住んでいた。②現在の並木通り付近は船着き場であったことから「新川場」と呼ばれた。西堂川と同じく運河だった。平和大通り・じぞう通りを抜けると、少し川筋が曲がり、東千田町の元広島大学の東の区画にそって、御幸橋の方向へ抜けていた。大正4年(1915)改修、昭和30年(1955)完全埋立された。
②鉄砲屋町 江戸時代、職人集住の町で鉄砲屋3軒・鉄砲台屋1件が明暦の切絵図に見える。東南角に相撲長屋があり延享2年(1745)頃広島藩お抱えの抱え力士の宿舎になっていた。明和年間(1764~72)御薗宇村(現東広島市西条町)出身の吾妻滝亀右衛門が大関となって活躍した。
6袋町公園(広島博愛病院跡)広島博愛病院:広島鎮台(のちの陸軍第5師団)の拠点であった広島において、軍医長瀬時衡や県令千田貞暁などの尽力により、明治19年(1886)10月下中町に「広島博愛病院」が開院。東京の博愛社病院(日本赤十字社医療センター)より前に開院した。ただし現在日赤が公表する資料では広島博愛病院は日赤広島病院の前身ではないとしている。この博愛病院を経営的に支えるものとして「広島博愛社」が同年11月に設立。明治21年(1888)ジュネーブ条約調印に伴い広島博愛社は日本赤十字社広島支部に改称した。明治26年(1893)には全国に先駆けて広島博愛病院内で看護婦養成を始めた。明治27年(1894)日清戦争で広島大本営が置かれた広島において、広島博愛病院は兵站病院を担った。
7とうかさん
①日蓮宗の寺院、福昌山 慈善院 圓隆寺または、毎年6月に行われる同寺院の総鎮守である稲荷大明神の祭礼。
②圓隆寺は元和5年(1619)、浅野長晟が僧・慈善院日音上人を開山に招聘して創建。寺の別名であり、毎年行われる夏祭りの名称でもある「とうかさん」とは、当寺の鎮守で、法華経を守護するとされる稲荷大明神のことで、稲荷を「とうか」と音読みしたのがその語源である。圓隆寺が建立されたのと同時に、日音により「稲荷(とうか)大明神」が勧請され、その神力により広島城の守りは言うに及ばず城下庶民への功徳救施は安寧と繁栄をもたらしたと伝えられている。戦時下でも「とうかさん大祭」は開かれたが、昭和20年(1945)広島市への原子爆弾投下により全壊焼失。昭和21年(1946)再興された。
③原惣右衛門(赤穂義士)の墓 浅野吉長(5代藩主)は原惣右衛門切腹の折3歳だった息子(原辰正)が播州で浪人しているのを知り妻子を広島に呼寄せ享保8年(1725)広島藩浅野藩に20扶持で召抱え後に250石に加増。原惣右衛門の妻も熱心な「とうかさん」を信仰したいたことから両親の墓を建立した。原爆投下後、都市区画整理法の関係から寺地が縮小され、一家につき墓石一墓と定め原惣右衛門夫妻の墓を原家の墓と定めた。
8移動演劇さくら隊殉難碑
桜隊:原爆の被害を受けた唯一の職業劇団。前身は、薄田研二、徳川夢声、丸山定夫、藤原釜足により結成された苦楽座。昭和20年(1945)2月から3月にかけて広島公演。6月、広島への疎開に際して、櫻隊と改称。15人が広島に疎開し公演活動の合間に稽古や防空壕掘り、建物疎開作業などの作業を続けた。島根・鳥取両県の8カ所で10回の公演を済ませ、7月16日に広島に帰還。8月6日、江戸家猫八 (3代目)は当時広島の陸軍船舶司令部に下士官として応召中で、当日は旧知の園井恵子と会う約束をしていたが広島市に原爆投下。市内中心部に位置する堀川町99番地の宿舎兼事務所〈爆心地から750m〉は全壊・焼失した。当時この宿舎にいた9人のうち、丸山・園井恵子・高山・仲みどりの4名は辛くも脱出・避難したが、他は即死あるいは焼死したとみられている。園井恵子と舞台監督の高山は、神戸市にある園井の知り合いの家に避難したが、高山が8月20日、園井は8月21日に死亡。仲は、東京の実家に避難したが、体調が悪化し死亡した。これにより広島に残留していた桜隊の隊員・スタッフは全滅した。〈建立者〉新協劇団、文学座、俳優座、ぶどうの会、民芸、中央芸術劇場、演劇人戦争犠牲者記念会
9竹屋地蔵尊
①夜泣き地蔵・首なし地蔵とも呼ばれ坐像の左右の花筒には「文化12年(1815)己丑((つちのとうし、きちゅう))二月」「新久屋長三郎奉納」あり、石柱には「賽銭箱 明治40年(1907)旧八月」と刻まれている。②竹屋地蔵尊は平田屋川に架かる竹屋橋近くに鎮座されていたが、原爆投下後ここ富士見町の平和大通り緑地帯に移された。その「じぞう通り」という愛称は地元の若手商店主が集まって、「私たちの街を考える会」を発足させ、「まずは通りに名前を付けよう」と愛称を広く募り平和大通りを挟んで北側の並木通りが、都会的な雰囲気なのに対して「庶民的で雑多なのが特長」と、「じぞう通り」の名前が選ばれ1987年に付けられた。竹屋地蔵地蔵盆が行われている。(H.P.ひろしまぶらり散歩・H.P.じぞう通り振興会参考)
10旧東寺町界隈 「じぞう通り」の北西の「小町」界隈は、かつては東寺町といわれ、江戸時代に浄土真宗以外のお寺が集められた。正清院跡(浅野光晟の生母、徳川家康の娘振姫の菩提寺。元和7年中町に建立され明暦の大火で焼失しここに回葬され現在は西区)には広島区役所が置かれていた。明治11年(1878)広島県第一大区が「広島区」と改称されると区役所は大手筋一丁目(現・中区大手町)に置かれ、新川場町(現・中区小町)の正清院に移転、ついで明治15年(1882)中島新町(現・中区中島町)の善福寺隣の旧広島藩米倉の跡地に木造の新庁舎が落成移転、明治22年(1899)広島市役所となった。
11雑魚場荒神堂
1605年8月国泰寺沖の葦の中に建立、安置。原爆の惨禍に見舞われたが、本尊は牛田の方に疎開させていたため無事、戦後1952年に現在地に安置された。
戦前、戦後(1965年までは)この辺りは“雑魚場町”であったことから雑魚場荒神堂とよばれている。荒神堂の入口には「原爆記念雑魚場疎開地跡」の石柱が建てられている。広島県立広島第二高等女学校(現在の広島皆実高等学校)教官4名、2年生生徒43名、附属山中高等女学校の教官4名、生徒382名は、爆心地から1.2㎞のこの地(現在の国泰寺町一丁目)で建物疎開作業中に被爆し、犠牲となった。碑は同じ場所で被爆し犠牲となった生徒らを慰霊する「広島女子高等師範学校・同附属山中高等女学校殉国学徒の碑」「広島県立広島第二高等女学校殉国学徒の碑」と同じ台石に建てられている。
12広島国泰寺高等学校 明治30年(1897)創立の「広島県立第一中学校」(旧制中学校)を前身とする。昭和20年(1945)原爆により校舎が壊滅、校長他職員15名と生徒366名が被爆死した。昭和23年(1948) 学制改革(六・三・三制の実施) 旧・第一中学校は新制高等学校に改組され、「広島県鯉城高等学校」が発足。校章は原子爆弾投下前、近くにあった国泰寺(戦後移転)の大楠を象徴化した「楠の葉」と、国泰寺が浅野氏の菩提寺であるところから浅野氏の家紋の「鷹の羽」で構成されている。昭和24年(1949)「広島県広島国泰寺高等学校」に改称した。明治天皇・昭和天皇の行幸碑、広島県立広島第一中学校職員生徒追憶の碑等がある。
13広島県立広島第一高等女学校跡
明治35年(1902)旧下中町で広島高等女学校開校、大正11年(1922)現在地に新校舎新築、昭和16年(1941)広島県立広島第一高等女学校に改称、昭和23年広島県立広島有朋高等学校、昭和43年広島皆実高等学校へ。爆心地から600mのこの地に正門があった。校舎は爆風により倒壊し焼失。当日在校していた生徒のほか、建物疎開作業に出動していた1年生と引率の教師が全滅するなど、教師20名生徒281名の犠牲者があった。右奥の石柱は当時の門柱の一つ。ハート型の千羽鶴掛けは当時の校章を基にしている。
広島県立広島第一高等女学校職員生徒追憶碑
14見真講堂跡 原爆倒壊した広島別院復興計画の一つ。敷地は広島地区労から買戻し。説教場と蓮如上人450回忌法要記念事業として財団法人広島真宗財団により昭和24年に開校した広島音楽高校 (平成29年閉校)の講堂も兼ね、昭和37年広島市中区中町に完工。約一億円(地元財界.刑務作業での賞与金を贈った死刑囚等の浄財)を費した。親鸞聖人の大師号をとって見真講堂と名づけた。
15袋町小学校平和資料館 原爆により外郭のみを残し廃墟。数日後には、被爆者の避難場所・救護所、本校児童・住民等の安否を尋ねる場となり、残ったチョークで煤けた壁に「伝言」を記した。袋町小学校は老朽化、平成14年(2002)被爆した「西校舎」の一部を広島市立袋町小学校平和資料館として保存、壁に残された「伝言」や爆風で歪んだ地下の鉄製のドア等を永久に保存することになった。
16マルセルジュノーの碑 スイスの医学者で、昭和19年(1944)連合軍捕虜の動静調査を目的に、赤十字国際委員会の駐日主席代表として来日。原爆被害の惨状を知ると直ちに連合国最高司令官総司令部へ救援要請、被害調査とともに、9月8日調達した大量15屯の医薬品と共に廃墟の市街へ入り惨禍の実情を調査 自らも被爆市民の治療にあたる。 博士の尽力でもたらされた医薬品は市内各救護所へ配布され数知れぬ被爆者を救った。
<参考文献>「現地案内版」「瀬戸内歴史散歩」『新広島城下町』『広島郷土史研究会 S40発行』「ウィキペディア」
少雨決行。
参加費 200円+1ドリンクオーダー(ビールなどお持ち帰りされてもOK)
レジメ (広島城外堀跡碑→旧平田屋町・鉄砲屋町→とうかさん→雑魚場荒神堂→広島県立広島第一高等女学校跡→袋町)
1源太堀: 広島城八丁堀の排水、縮景園の小川から流れる流川と薬研堀につながり広島城の防禦機能と江戸時代の水道設備と考えられる。
2広島城外堀跡碑
住民の増加による、広島城の堀の汚水による伝染病問題を解決するため、明治41年(1908)に埋め立てを決定。『広島電気軌道』が明治43年(1910)、広島駅-己斐間(現在の本線)、土橋-中島新橋-鷹野橋-御幸橋間(現在の宇品線の一部)、八丁堀-竹屋町-御幸橋間(実現せず)、十日市-横川間(現在の横川線)の路線敷設の特許を取得。その後、八丁堀-竹屋町-御幸橋間を紙屋町を経由する案に変更、八丁堀-白島(現在の白島線)の特許も取得。なお明治44年(1911)11月には城の外堀埋立が終わり電車通りとなる相生通りや鯉城通りが整備された。大正元年(1912)11月、市内電車が、広島駅-紙屋町-相生橋線など3路線で開通し、従来の乗合馬車に代り市内の主要交通機関となった。
3福屋
①昭和4年(1929)、広島県で初の百貨店として創業、昭和13年(1938)に現在地に新店舗として開館。原爆の被害を受けた八丁堀本店は、現存する数少ない被爆建造物である(爆心地より710m)。
②松竹東洋座・広島名画座 東館のある地には、平成20年(2008)まで100年近くにわたり松竹系の映画館があった。東館8階には、松竹系封切館の『松竹東洋座』と、独立系の封切などを主に上映した『広島名画座』が設けられた。松竹東洋座は大正5年(1916)に創設した「日本館」が前身で昭和25年(1950)に改築し「東洋座」と改称。美空ひばりなどの歌謡ショーが行われていた時期もあった。松竹東洋座の閉館後、しばらくは空き家だったが、平成22年(2010)に映画館「八丁座」に生まれ変わった。
4広島中の棚稲荷神社
①宝暦8年以後の勧請で”中ノ棚稲荷”はもと餅屋某という者の鎮守であったものと伝えられるが、今は広くこの辺一帯の商売人の信仰の中心となって栄えている。弘化年間(1844~48)沼田郡狐瓜木稲荷、白島宝勝院稲荷、稲荷町稲荷、円隆寺稲荷、後松原七本松稲荷とともに有名だった。
②魚市場のあった中の棚(現立町)昔、広島城下に三軒の魚問屋があり西魚屋町と京橋町と東魚屋町。ここはその中間にあたっていたので”中ノ棚”ともいって、市中で一番古い歴史を持つ魚市場。元和5年(1619)浅野長晟が紀州より入府するとき、御肴御用商人「天満屋治兵衛」と「七右エ門」が随行し、東魚屋町に住み代々魚問屋を業としていた。その後海田屋、周防屋、阿賀屋、吉田屋などの魚問屋が軒を並べた記録がある。またここにはカマボコ商も数軒あって商売は繁栄した。
③地面の下60㎝の所に遺跡として江戸時代初期に造られた中の棚遺跡が保存されているとのこと。④町の東は八丁堀の水が南に通じて、堀川町を南に向かって竹屋川として流れていた。
5旧平田屋町・鉄砲屋町
①平田屋川: 天正17年(1589)広島城築城の際の資材運搬のために掘削された。出雲国平田(島根県平田市)出身の大商人平田屋惣右衛門(旧尼子家家臣)が毛利・福島氏に呼ばれ築城や城下の建設に功績、屋敷を賜ったあたりが平田屋町で、近くの川と橋(平田屋橋)にその名が付けられた。子孫は江戸時代6代目まで船年寄として平田屋町に住んでいた。②現在の並木通り付近は船着き場であったことから「新川場」と呼ばれた。西堂川と同じく運河だった。平和大通り・じぞう通りを抜けると、少し川筋が曲がり、東千田町の元広島大学の東の区画にそって、御幸橋の方向へ抜けていた。大正4年(1915)改修、昭和30年(1955)完全埋立された。
②鉄砲屋町 江戸時代、職人集住の町で鉄砲屋3軒・鉄砲台屋1件が明暦の切絵図に見える。東南角に相撲長屋があり延享2年(1745)頃広島藩お抱えの抱え力士の宿舎になっていた。明和年間(1764~72)御薗宇村(現東広島市西条町)出身の吾妻滝亀右衛門が大関となって活躍した。
6袋町公園(広島博愛病院跡)広島博愛病院:広島鎮台(のちの陸軍第5師団)の拠点であった広島において、軍医長瀬時衡や県令千田貞暁などの尽力により、明治19年(1886)10月下中町に「広島博愛病院」が開院。東京の博愛社病院(日本赤十字社医療センター)より前に開院した。ただし現在日赤が公表する資料では広島博愛病院は日赤広島病院の前身ではないとしている。この博愛病院を経営的に支えるものとして「広島博愛社」が同年11月に設立。明治21年(1888)ジュネーブ条約調印に伴い広島博愛社は日本赤十字社広島支部に改称した。明治26年(1893)には全国に先駆けて広島博愛病院内で看護婦養成を始めた。明治27年(1894)日清戦争で広島大本営が置かれた広島において、広島博愛病院は兵站病院を担った。
7とうかさん
①日蓮宗の寺院、福昌山 慈善院 圓隆寺または、毎年6月に行われる同寺院の総鎮守である稲荷大明神の祭礼。
②圓隆寺は元和5年(1619)、浅野長晟が僧・慈善院日音上人を開山に招聘して創建。寺の別名であり、毎年行われる夏祭りの名称でもある「とうかさん」とは、当寺の鎮守で、法華経を守護するとされる稲荷大明神のことで、稲荷を「とうか」と音読みしたのがその語源である。圓隆寺が建立されたのと同時に、日音により「稲荷(とうか)大明神」が勧請され、その神力により広島城の守りは言うに及ばず城下庶民への功徳救施は安寧と繁栄をもたらしたと伝えられている。戦時下でも「とうかさん大祭」は開かれたが、昭和20年(1945)広島市への原子爆弾投下により全壊焼失。昭和21年(1946)再興された。
③原惣右衛門(赤穂義士)の墓 浅野吉長(5代藩主)は原惣右衛門切腹の折3歳だった息子(原辰正)が播州で浪人しているのを知り妻子を広島に呼寄せ享保8年(1725)広島藩浅野藩に20扶持で召抱え後に250石に加増。原惣右衛門の妻も熱心な「とうかさん」を信仰したいたことから両親の墓を建立した。原爆投下後、都市区画整理法の関係から寺地が縮小され、一家につき墓石一墓と定め原惣右衛門夫妻の墓を原家の墓と定めた。
8移動演劇さくら隊殉難碑
桜隊:原爆の被害を受けた唯一の職業劇団。前身は、薄田研二、徳川夢声、丸山定夫、藤原釜足により結成された苦楽座。昭和20年(1945)2月から3月にかけて広島公演。6月、広島への疎開に際して、櫻隊と改称。15人が広島に疎開し公演活動の合間に稽古や防空壕掘り、建物疎開作業などの作業を続けた。島根・鳥取両県の8カ所で10回の公演を済ませ、7月16日に広島に帰還。8月6日、江戸家猫八 (3代目)は当時広島の陸軍船舶司令部に下士官として応召中で、当日は旧知の園井恵子と会う約束をしていたが広島市に原爆投下。市内中心部に位置する堀川町99番地の宿舎兼事務所〈爆心地から750m〉は全壊・焼失した。当時この宿舎にいた9人のうち、丸山・園井恵子・高山・仲みどりの4名は辛くも脱出・避難したが、他は即死あるいは焼死したとみられている。園井恵子と舞台監督の高山は、神戸市にある園井の知り合いの家に避難したが、高山が8月20日、園井は8月21日に死亡。仲は、東京の実家に避難したが、体調が悪化し死亡した。これにより広島に残留していた桜隊の隊員・スタッフは全滅した。〈建立者〉新協劇団、文学座、俳優座、ぶどうの会、民芸、中央芸術劇場、演劇人戦争犠牲者記念会
9竹屋地蔵尊
①夜泣き地蔵・首なし地蔵とも呼ばれ坐像の左右の花筒には「文化12年(1815)己丑((つちのとうし、きちゅう))二月」「新久屋長三郎奉納」あり、石柱には「賽銭箱 明治40年(1907)旧八月」と刻まれている。②竹屋地蔵尊は平田屋川に架かる竹屋橋近くに鎮座されていたが、原爆投下後ここ富士見町の平和大通り緑地帯に移された。その「じぞう通り」という愛称は地元の若手商店主が集まって、「私たちの街を考える会」を発足させ、「まずは通りに名前を付けよう」と愛称を広く募り平和大通りを挟んで北側の並木通りが、都会的な雰囲気なのに対して「庶民的で雑多なのが特長」と、「じぞう通り」の名前が選ばれ1987年に付けられた。竹屋地蔵地蔵盆が行われている。(H.P.ひろしまぶらり散歩・H.P.じぞう通り振興会参考)
10旧東寺町界隈 「じぞう通り」の北西の「小町」界隈は、かつては東寺町といわれ、江戸時代に浄土真宗以外のお寺が集められた。正清院跡(浅野光晟の生母、徳川家康の娘振姫の菩提寺。元和7年中町に建立され明暦の大火で焼失しここに回葬され現在は西区)には広島区役所が置かれていた。明治11年(1878)広島県第一大区が「広島区」と改称されると区役所は大手筋一丁目(現・中区大手町)に置かれ、新川場町(現・中区小町)の正清院に移転、ついで明治15年(1882)中島新町(現・中区中島町)の善福寺隣の旧広島藩米倉の跡地に木造の新庁舎が落成移転、明治22年(1899)広島市役所となった。
11雑魚場荒神堂
1605年8月国泰寺沖の葦の中に建立、安置。原爆の惨禍に見舞われたが、本尊は牛田の方に疎開させていたため無事、戦後1952年に現在地に安置された。
戦前、戦後(1965年までは)この辺りは“雑魚場町”であったことから雑魚場荒神堂とよばれている。荒神堂の入口には「原爆記念雑魚場疎開地跡」の石柱が建てられている。広島県立広島第二高等女学校(現在の広島皆実高等学校)教官4名、2年生生徒43名、附属山中高等女学校の教官4名、生徒382名は、爆心地から1.2㎞のこの地(現在の国泰寺町一丁目)で建物疎開作業中に被爆し、犠牲となった。碑は同じ場所で被爆し犠牲となった生徒らを慰霊する「広島女子高等師範学校・同附属山中高等女学校殉国学徒の碑」「広島県立広島第二高等女学校殉国学徒の碑」と同じ台石に建てられている。
12広島国泰寺高等学校 明治30年(1897)創立の「広島県立第一中学校」(旧制中学校)を前身とする。昭和20年(1945)原爆により校舎が壊滅、校長他職員15名と生徒366名が被爆死した。昭和23年(1948) 学制改革(六・三・三制の実施) 旧・第一中学校は新制高等学校に改組され、「広島県鯉城高等学校」が発足。校章は原子爆弾投下前、近くにあった国泰寺(戦後移転)の大楠を象徴化した「楠の葉」と、国泰寺が浅野氏の菩提寺であるところから浅野氏の家紋の「鷹の羽」で構成されている。昭和24年(1949)「広島県広島国泰寺高等学校」に改称した。明治天皇・昭和天皇の行幸碑、広島県立広島第一中学校職員生徒追憶の碑等がある。
13広島県立広島第一高等女学校跡
明治35年(1902)旧下中町で広島高等女学校開校、大正11年(1922)現在地に新校舎新築、昭和16年(1941)広島県立広島第一高等女学校に改称、昭和23年広島県立広島有朋高等学校、昭和43年広島皆実高等学校へ。爆心地から600mのこの地に正門があった。校舎は爆風により倒壊し焼失。当日在校していた生徒のほか、建物疎開作業に出動していた1年生と引率の教師が全滅するなど、教師20名生徒281名の犠牲者があった。右奥の石柱は当時の門柱の一つ。ハート型の千羽鶴掛けは当時の校章を基にしている。
広島県立広島第一高等女学校職員生徒追憶碑
14見真講堂跡 原爆倒壊した広島別院復興計画の一つ。敷地は広島地区労から買戻し。説教場と蓮如上人450回忌法要記念事業として財団法人広島真宗財団により昭和24年に開校した広島音楽高校 (平成29年閉校)の講堂も兼ね、昭和37年広島市中区中町に完工。約一億円(地元財界.刑務作業での賞与金を贈った死刑囚等の浄財)を費した。親鸞聖人の大師号をとって見真講堂と名づけた。
15袋町小学校平和資料館 原爆により外郭のみを残し廃墟。数日後には、被爆者の避難場所・救護所、本校児童・住民等の安否を尋ねる場となり、残ったチョークで煤けた壁に「伝言」を記した。袋町小学校は老朽化、平成14年(2002)被爆した「西校舎」の一部を広島市立袋町小学校平和資料館として保存、壁に残された「伝言」や爆風で歪んだ地下の鉄製のドア等を永久に保存することになった。
16マルセルジュノーの碑 スイスの医学者で、昭和19年(1944)連合軍捕虜の動静調査を目的に、赤十字国際委員会の駐日主席代表として来日。原爆被害の惨状を知ると直ちに連合国最高司令官総司令部へ救援要請、被害調査とともに、9月8日調達した大量15屯の医薬品と共に廃墟の市街へ入り惨禍の実情を調査 自らも被爆市民の治療にあたる。 博士の尽力でもたらされた医薬品は市内各救護所へ配布され数知れぬ被爆者を救った。
<参考文献>「現地案内版」「瀬戸内歴史散歩」『新広島城下町』『広島郷土史研究会 S40発行』「ウィキペディア」
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