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11月のブラアリタのレジメです。

2018年11月04日
ブラアリタ(平成30年11月23日金曜・祝日)鷹野橋~御幸橋

有田先生の郷土の歴史のお話を聴きながら広島をブラブラ歩く会です。

毎回 午後1時半にカモメに集合。
少雨決行。
参加希望者は、できればご予約をお願いします。(急な参加でも大丈夫です。)
参加費 200円(テキスト付)+1ドリンクオーダー


(1)峯本稲荷神社
① 1591年毛利輝元が広島城に入城し吉田から西堂川土手に遷座,白神社の御旅所として鎮座された。②西堂川に橋が架かり藩主はこの橋を渡り、鶴・鴨等の狩りを楽しみその由来から鷹野橋と呼ばれた。藩政期の1758年(宝暦8年)、城下の大火ののち「バタバタ」という妖怪がこの界隈に出没したという伝説も残され、その記念碑も建てられている。③1919年に公営市場が開設され、戦後には公設市場が再開。「峯本稲荷神社」は、毎年8月には「二十六夜祭」が開かれ、盛大にお祭りを行っている。

(2)広島大学跡地

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①1874年(明治7年)創立の白島学校を前身とする広島師範学校、1902年(明治35年)創立の広島高等師範学校、1929年(昭和4年)創立の広島文理科大学を含む官立7校を包括、広島市立1校を併合して、1949年(昭和24年)に新制大学として設置され、さらに1953年、県立の広島医科大学を併合して医学部・病院部門を加えた。②旧理学部1号館は、昭和6年に広島文理科大学の校舎として竣工。戦争末期の1945年(昭和20年)6月、大学本館の1/3以上(3階および2階の一部)は中国地方総監府に接収されたが原爆投下、爆心地より1420メートルの位置にあった本館の内部は1Fの3室を除いて全焼。被爆当時、暗闇の中の本館から手探りで避難した人々により壁に残された血痕は、1958年(昭和33年)の改修に際して切り取られ保存された。また、正面の大時計は8時15分を示したまま戦後長く止まっていたが、1965年頃、修理不可能として交換された。平成3年に理学部が東広島キャンパスに移転し閉鎖。

(3)広島赤十字・原爆病院
① 軍医長瀬時衡や県令千田貞暁などの尽力により、1886年(明治19年)10月下中町に「広島博愛病院」が開院。現在敷地には陸軍施設が置かれたり、1909年(明治42年)から1938年(昭和13年)まで進徳高等女学校が置かれた。病院建設は進徳の移転の用地買収問題で着工が遅れたが、1939年(昭和14年)「日本赤十字社広島県支部病院」として開業。同年8月には陸軍指定「広島陸軍病院赤十字病院」、1943年(昭和18年)「広島赤十字病院」に改称。②爆心地から1.5kmに位置、外郭は残った。被爆後に訪れた日本政府調査団が原爆であると断定した根拠となった資料の一つに、日赤病院の感光したレントゲンフィルムがある。救護活動の中心は、副院長兼内科医長で後に院長に就任することになる重藤文夫で生き残った医師・看護婦・看護婦生徒は応急処置を行い直ちに救護活動を開始、それに動ける軍患者60人が手伝い市街地における医療拠点の一つとなった。日赤病院を目指した被爆者にとって本館の塔は格好の目印でといい、のちに「いのちの塔」と呼ばれた。佐々木禎子も日赤病院に入院、1955年(昭和30年)死去。1956年(昭和31年)「日本赤十字社広島原爆病院」が開院、被爆医療の中枢を担う。1988年(昭和63年)新病棟を建て合併して「広島赤十字・原爆病院」と改称。③1993年(平成5年)、日赤は病院敷地内に部分保存する方針を正式発表。広島市は被爆50年目事業として被爆建物の洗い直しを始め、市が助成金を出す「市被爆建物等保存・継承事業実施要項」を制定、適用第1号として旧日赤病院遺構群が選ばれ、日赤病院敷地東端の千田通り沿いにモニュメント保存された。病院の新たな改修に伴い、病院内のモニュメントを南側の日赤広島支部敷地内に移し、2013年(平成25年)「広島赤十字・原爆病院メモリアルパーク」として整備された。

(4)山中女学校
(中区千田町二丁目5番
・千田第一公園内)
① 1887年、当時県会議員で女子教育に熱心だった山中正雄が私立広島高等女学校を設立、のち、創設者の名前をとって「山中高等女学校」。国粋主義的な情操教育を特徴とし、小学校女子教員養成で名をあげ、全国屈指の女学校と言われ、現安田学園の創始者、安田リョウもここの卒業生。第二次世界大戦中に国に寄附、これを基礎に官立の広島女高師が設立された。東京および奈良に次ぐ第3のそして最後の女子高等師範学校だった。②原爆投下により、大半が木造2階建てであった女高師・附属山中高女の校舎は瞬時に大破・倒壊し全焼、唯一のRC造建築であった体育館も爆風で大破した。当日は開校したばかりの女高師の初授業が生徒全員(81名)を対象として予定されていたが、全員が被爆し、校舎の倒壊で下敷きになった10数名が死亡した。また附属山中高女の1・2年生333名は、当日市内雑魚場町(現在の中区国泰寺町)での建物疎開作業に動員されていたため、原爆による熱線・爆風・放射線の直撃を受け、1名を残して全滅し広島大学の旧制前身校のうち最も多くの被爆死者を出した学校となった。③広島女子高等師範学校附属山中高等女学校・広島青年師範学校附属青年学校⇒⇒広島大学附属福山中学校・高等学校。広島大学が東広島市に移転するまでは、広大女子寮の名前が「山中寮」と称されていた。

(5)広島地方貯金支局跡
①生ましめんかな=原子爆弾が投下された後の夜、地下室に避難していた被爆者の1人が突然産気づき、同じ地下室内に避難していた1人の産婆が、自らの怪我を省みずに無事赤子を取り上げるが、それと引き換えに命を落としたという内容。栗原貞子は、広島市千田町の貯金支局庁舎の地下室で新しい生命が生まれたという出来事を伝え聞き、感動してこの詩を書きあげた。原爆詩の代表作の1つとされている。日本郵政株式会社中国支社の敷地内にある『郵政関係職員慰霊碑』と共に『生ましめんかな』の歌碑が建てられている。なお、詩の中の産婆は地下室で亡く。
なるが、モデルとなった産婆も、妊婦と子供(南区在住:小嶋和子さん)も、命を取り留め、戦後社会を生きている

(6)広島電鉄本社
①「広島電気軌道株式会社」として1910年(明治43年)6月18日に設立。当初は、大林組傘下の企業で、同様の経緯によって作られた会社が広島ガス、2社は1つの会社だった時期があったが1942年(昭和17年)に「広島瓦斯電軌株式会社」(現在の広島ガス)から運輸事業を分離して設立された。本社所在地は開業時及び広島電鉄設立より当地に置かれている。広島ガス統合時代に設立された財団法人広島瓦斯電軌学園は、第二次大戦後は学校法人鈴峯学園(鈴峯女子短期大学・鈴峯女子中
学校・高等学校を設置)に改組・改称し2015年4月に学校法人修道学園に吸収合併された。プロ野球球団の広島カープ(現・広島東洋カープ)に設立時の共同出資企業の一つ。②8月6日、陸軍船舶司令部等の指揮所が設けられ原爆による負傷者の救護が行われた。広島電鉄千田町変電所 •爆心地からの距離 1920メートル•中区東千田町2丁目9番29号(千田町3丁目)•1912(大正元)年11月竣工•レンガ造平屋建・地下1階。原爆によって変電所は倒壊を免れたが,車両の被害は108両におよび再起不能と思われた。しかし,被爆当日の午後から復旧にかかり,8月9日にはもう最初の電車が動きだした。千田町の変電所が生き残ったことが,被害の大きさにもかかわらず早期の復旧を可能とした。復旧した己斐-西天満町間、一番電車が走った。

(7)修道中学校・修道高等学校
①1725年(享保10年)に広島藩第5代藩主浅野吉長が「講学所」を設置して以来、藩校を起源として約290年の歴史を有する。広島藩校は「講学所」「講学館」「学問所」と校名を変えながら続き、修道の名は1870年(明治3年)に城中三の丸の「学問所」を第12代藩主浅野長勲が城中八丁馬場へ移して「修道館」と称した時に始まる。四書の一つ「中庸」の『修道之謂教』(道ヲ修ムル之ヲ教ヘトイフ)の言葉に基づく。「知徳併進」「質実剛健」を二大校是としている。② 校内の史跡・美術品:修道学問所之蔵 - 江戸時代に修道の前身である藩校学問所島城内)が所有していた土蔵を平成26年(2014年)に移築。被爆建物:陶板画「希望の光 安芸の小富士」 - この学校の出身者である日本画家平山郁夫が校歌の一節をモチーフに創作。幅4.5メートル、高さ3メートル。平成15年(2003年)新校舎完成を記念して学校に寄贈された。本館1階ロビーに展示:浅野長勲頌徳碑 - 広島藩12代藩主浅野長勲が現在の校地を修道に無償貸与したことを記念して昭和7年(1932年)建立:十竹山田先生之碑 - 学園の開祖である山田十竹の門人らにより大正3年(1914年)建立。撰文佐藤正、篆額加藤友三郎:修道中学校職員生徒慰霊碑 - 原子爆弾の犠牲となった職員生徒約200名を慰霊するため、昭和21年(1946年)建立。戦後最も早く建てられた原爆慰霊碑etc

(8)川畔荘
正田 篠枝=日本の歌人、平和運動家。。広島県安芸郡江田島村字秋月出身。旧制安芸高等女学校(後の安芸学園安芸女子高等学校、さらに後に廃校)に編入。浄土真宗が盛んな広島において、同後に篠枝の詠む歌に仏教思想を背景とした語句が多く用いられるなど、彼女の人生観に大きな影響を与えた。平野町で被爆。被爆経験を詠んだ多数の短歌により「原爆歌人」として知られており、中でも原爆批判に対する厳しい統制下で出版された歌集『さんげ』が、原爆文献中でも随一の稀覯本として知られている。私生活では再婚して次男をもうけるが離婚。1952年(昭和27年)、割烹旅館を開業、客の1人に、詩人・峠三吉がいた。峠は篠枝の作品集の出版のために出版社にかけ合うなど、深い交流があった。峠は1953年(昭和28年)2月に国立広島療養所での手術中に死去したが、手術決定時、篠枝は峠に手術をやめるよう懇願したといい、峠が病院へ発つ際には、篠枝は広島駅で峠を見送り、峠の身を案じる歌を詠んでいる。原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑

(9)御幸橋
①江戸時代初期は海で、江戸時代中期に右岸側の千田地区は干拓により開発された。1885年(明治18年)、宇品築港事業にともない架橋され、140間(約255m)規模の橋で当時広島でもっとも長い木橋であったことから「長橋」(ながはし)と呼ばれ、「川口橋」という別称もあった。山陽道行幸中の明治天皇が広島を訪問し、この橋を渡ったことから「御幸橋」と改称された。②爆心地から2.3㎞、落橋自体は免れたため対岸の宇品方面へ避難する罹災者が橋に殺到し混乱と凄惨をきわめた。この日の午前11時頃、勤務先の中国新聞に向かっていたカメラマン・松重美人は、橋の西詰(当時南側に御幸橋交番があった)で爆心地方面から逃れ応急手当を受けていた被爆者の群集を目の当たりにして写真を撮影、これらが被爆当日の広島市街中心部を撮影したほとんど唯一の写真となった。

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コメント
(4)山中女学校
母の母校です。幸運なことに母はその朝、帰省途中の八本松の峠でキノコ雲を見ました。ただ後日市内に戻り、入市被爆しましたが。
放送大学裏手にある、山中在学中に被爆して故人になられた方々の名前が刻まれた石碑に母の名もあるそうですが、バカ息子はいまだ訪ねておりません。
この機会にと、思いました。
よろしくお願いたします。
KIRICKLANDさん
それはぜひご一緒に!

参加していただけるのを楽しみにしています!
ありがとうございます。

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