ブラアリタ 11月のレジュメ
2020年11月15日
☞11月のブラアリタは直接 縮景園 に集合です。
11月28日(土) 午後1時30分集合
縮景園の中に入ったところで。
参加費 300円(レジュメプリント)
☆建物内に入る時などはマスク必須でよろしくお願いいたします。
少雨決行
要申し込み 有田先生又はカモメまで。

ブラアリタ 令和2年11月28日(土)
縮景園→流川通り→薬研堀通り→新天地→田中町
(1)縮景園
跨虹橋(ここうきょう)
①国の名勝、日本の歴史公園100選。広島藩浅野氏初代藩主浅野長晟が作らせた藩主の別邸(大名庭園)が起源で、最初の作庭は上田宗箇だが,宝暦8年(1758)宝暦の大火で城下は灰燼に帰し、7代藩主浅野重晟は京都から庭師清水七郎右衛門を呼び寄せ新作に近い大改修を行い天明8年(1783)完成。現在の庭園の原型が形成された。
②池の水は京橋川から水門によって引き入れ、末流は市街地を南流し上流川・下流川の町名の起源となった。
③日清戦争時、広島大本営が設置された際には「大本営副営」(明治天皇の宿泊所)となった。現在の広島県立美術館および広島市立幟町中学校の敷地の一部は元々は縮景園敷地であった。昭和15年(1940)浅野氏が広島県に寄贈。
④縮景園は空襲時の市民避難先に指定されていたため、原爆直後の園内は多くの被災者であふれた。この園内で命を落とした被爆者の遺体の大部分は火葬されたが、いくつかは火葬されず園内の丘に埋葬された。被爆直後に縮景園を訪れた朝日新聞の松本栄一カメラマンは、被爆して枯れた木の根元に遺体が埋葬された旨を記した立札を撮影しており、この写真にもとづいて発掘調査が実施され昭和62年(1987)64柱の遺骨が発見され、その場所には現在慰霊碑が建立されている。昭和24年(1949)広島平和記念都市建設法施行により復旧開始、本格的な復旧工事は昭和37年(1962)から始まり、1970年代にほぼすべて完了した。
(2)広島女学院
①明治19年(1886)に砂本貞吉が「広島女学会」で開設、木原秀三郎(元神機隊)も設立に尽力。アメリカから来日した宣教師のN・B・ゲーンスによって教育の基盤が整備された。中国地方では最も歴史の長いミッションスクール。
②著名な出身者 杉村春子 - 女優(教師として在籍)青山祐子 - 元NHKアナウンサー 戸田麻衣子 - 元女優。戸田菜穂の妹 杉浦圭子 - NHKアナウンサー等
(3)幟町中学校
①折り鶴の碑 敷地内(道路からも見ることは可能)にあり、他県の学校からも平和学習に訪れる。校舎裏には被爆エノキもある。②出身有名人 佐々木禎子(原爆の子の像のモデル)應武篤良(早稲田大学野球部監督)西田一生(振付師)緒方かな子(タレント・広島東洋カープ緒方孝市夫人)
(4)流川教会
①明治20年(1887)、砂本貞吉が中心となりアメリカ人宣教師ウォルター ラッセル ランバスの協力を得て創設。当時の教会堂は階下を教会の集会所として階上に女生徒を集めて女学校とし、広島女学院の母体となる。
②原爆投下時の主任牧師の谷本清は、教会やそれにまつわる人々の絆の復興と平和運動、原爆乙女の渡米治療運動や原爆孤児に対する精神養子運動を行った。谷本清平和賞が毎年平和のために尽力する個人や団体に授与され俳優の吉永小百合、『はだしのゲン』作者の中沢啓治、アーサービナード、学校法人広島女学院等が受賞している。
(5)世界平和記念聖堂
①明治15年(1882)幟町に教会が設けられた。一時期、山口町、研屋町に移転した期間を挟んで、明治35年(1902)には再び幟町にもどり、現在地に落ち着いた。第二次世界大戦の終りまで広島カトリック教会は「幟町天主公教会」と呼ばれ、この地にあったのは明治時代に建てられた古い和風(日本様式)の教会堂であった。②原爆投下によって倒壊・焼失、広島で被爆したエノミヤ・ラサール神父(日本に帰化し愛宮真備〈えのみや まきび〉)が、ローマ教皇をはじめ世界中の人々の協力を得て昭和25年(1950)8月6日に着工、4年の歳月をかけ昭和29年(1954)8月6日に落成し「世界平和記念聖堂」と名付けた。設計は常陸宮邸や兵庫県宝塚市庁舎を手がけた村野藤吾で、戦後の建築物として初めて平和記念資料館と共に国の重要文化財に指定された。
(6)常照山正光寺:浄土真宗本願寺派
①石山合戦を通じて毛利氏家臣の福原嶺綱は浄土真宗門徒(僧名は了知)となり郡山城下に小堂を建てたが、広島築城の際に東西40間・南北30間の寺地を貰って現在地に移転。福島氏時代に寺地を縮小された。②正光寺沼田郡石見町ありとの記述あり(知新集)。江戸時代、真宗大谷派の触頭(寺社奉行の命令の伝達役)となり、本願寺派に改派後は触頭は徳栄寺に交代した。③被爆した墓石・地蔵尊が現存している。
(7)薬研堀源流(幟町交番前付近)
①薬研堀:薬を調合する薬研の器に似た形 毛抜き堀:底の中心で石が合うような組み方。毛抜きに似ている 箱堀:箱の形になるように石を組む。②明治後期には堀はすでに埋められていた。
(8) 薬研堀一帯の惨状写真案内碑
(昭和20年11月松重美人氏撮影):被爆当日この地区で建物疎開作業が行われ多数の犠牲者、家屋は一瞬で倒壊し全て火の海となった。
(9)三越広島店
①江戸時代、広島藩の流川牢屋敷があった。②昭和44年(1969)まで中国新聞社の本社が置かれていた。その経緯により、現在でも建物は、中国新聞社の関連会社の『中国新聞文化事業社』が所有管理している。昭和48年(1973)4月8日に三越広島店として開店した。平成22年(2010)4月1日をもって株式会社広島三越として分社化された。
(10)胡神社
①元々、西光寺という寺の中にある神社が発祥。西光寺由来では、西光寺と胡堂は、毛利氏の時代、高田郡吉田(現在の安芸高田市吉田町)から高宮郡古市(現在の安佐南区古市)へ、その後さらに城下の西引御堂町へ移転し、福島氏の時代に胡町に移動したとされる。
② 胡子講: 11月17日から4日間開かれる祭り。地元の商店街では開催に合わせて大売出しが行われ「えべっさん」として親しまれる。(広島三大寺社祭りの一つ)商売繁盛の縁起物が飾られた熊手(こまざらえ)を発売するとともに、周辺の商店やデパートでは、一斉にバーゲンが行われ、中央通りが歩行者天国となり期間中は10万人以上の人手で賑わう。慶長8年(1603)の胡子神社建立より続く。熊手は明治34年(1901)の鎮座300年祭より売り出されるようになった。原爆被災の際も、わずか3か月後の11月20日に仮設のバラックの社殿で祭典が行われた。400年以上途切れずに胡子大祭は行われている。
(11)堀川町の曲がった電柱 店の袖看板に電線が当たらないように曲がった電柱を採用したとのこと。
(12) 広島新天地 ①本通りの東端に大正10年(1921)に出来た繁華街。映画館(新天地倶楽部.日進館)・劇場(新天座)・飲食店が軒を連ねた。周辺道路は入り組んでいたが、太平洋戦後、区画整理され新天地広場(現アリスガーデン)が作られ戦後間もなく公園にお好み焼きの屋台が集まり「お好み村」と言われた。
②紅桃稲荷大明神(新天地商店街の商売繁盛の守護神) とうかさんのいとこになると言われる。原爆の時、ご神体は疎開していた為被災は免れ、現在の所に移転した。東新天地駐車場上の公園に再興された。
(13)福昌山 慈善院 圓隆寺(日蓮宗)
①元和5年(1619)浅野長晟が僧・慈善院日音上人を開山に招聘して創建。毎年行われる夏祭りの名称でもある「とうかさん」は、当寺の鎮守であり、法華経を守護するとされる稲荷大明神のことで、稲荷を「とうか」と音読みしたのがその語源である。圓隆寺が建立されたのと同時に、日音により「稲荷(とうか)大明神」が勧請され、その神力により広島城の守りは言うに及ばず城下庶民への功徳救施は安寧と繁栄をもたらしたと伝えられている。戦時下でも「とうかさん大祭」は開かれたが、原爆投下により全壊焼失。昭和21年(1946)再興された。この年も「とうかさん大祭」の神事は続けられ、祭りの歴史が途切れることはなかった。
②三桝正典氏がコロナ終息祈願した奉納画「アマビコ」が観覧できる。「三神花菖蒲狐図屏風」も奉納されいている。③原惣右衛門元辰(赤穂義士)の墓 惣右衛門切腹後、安芸広島藩第5代藩主浅野吉長は惣右衛門の子が成長し播州で浪人しているいることを知り、妻子を広島に呼び寄せ、嫡男「原惣八郎辰正(重次郎)」を広島藩では享保8年(1725)20人扶持で召し抱える事にし後に250石に昇給した。惣右衛門の妻も熱心に「とうかさん」を信仰していたことから享保18年(1733)妻が亡くなり、惣八郎は両親の墓を建立した。原爆投下後、都市区画整理法により寺領を大幅に縮小した当山は、墓地を再建するにあたり一家に墓石一基と定め、原家も原惣右衛門夫妻の墓石を原家の墓と定めた。
(14) 日光山禅昌寺跡
①木原秀三郎(神機隊)の菩提寺。禅の道場。
②元和元年(1615)奈良県磯城郡田原本町味間の補厳寺(謡曲観世流の二祖世阿弥が出家得度の寺)第7世蘭裔守胤禅師(らんえい しゅいんぜんじ)の弟子、東庵守陽禅師により創建「僧東庵開基.境内神祠一宇あり(芸藩通志)」。無住となった端川寺(現:聖光寺)に4世大淵が入って端川寺を再開山した。度々の火災(寛政元年(1789)稲荷町から出火し179軒消失等)で復興、伽藍は、明治38年の震災で被害を被ったが大修繕されて、原爆により消失するまで存在していた。
②昭和40年、戸坂町くるめ木に境内を移転、昭和55年、広島市東区戸坂山根に境内を移した。
(15)田中町界隈
①福島時代 宣教師コーロスは、慶長9年(1604)広島教会を建て、場所は広島城下田中町の毛利家家臣佐世与三左衛門元嘉の旧屋敷(田中二軒屋敷)で、広島協会によりキリシタン(竹屋)新開にライ病病院も建てられた。キリストの布教活動を行ない、次第に信者数は増えた。正則は禁止令がでると領内の伝道を禁止し信者の処罰をはじめた。
②石川丈山 徳川家に仕える譜代武士の子。徳川家康の近侍となり信頼を得る。大坂夏の陣に参加し、軍令に反して抜け駆けの先登をしたため家康の賞するところとならず、浪人となり妙心寺に隠棲。元和3年(1617)頃、知人・林羅山の勧めによって藤原惺窩に師事し、儒学を学ぶ。病気がちな母を養うために紀州(和歌山県)の浅野家に仕官し、浅浅野家の転封に従って安芸・広島に赴き、13年ほど過ごした。広島城下田中町にあったキリシタン屋敷-二軒長屋跡を与えられた。強引に引退し京に出て、寛永13年に相国寺の近くに睡竹堂をつくり隠棲する。富士山 仙客来遊雲外巓 神龍棲老洞中渕 雪如ガン素煙如柄 白扇倒懸東海天
(16)広島デルミネーション
19回目を迎え、広島の冬の風物詩となった「ひろしまドリミネーション」。平和大通りをはじめとした広島市内中心部で、「おとぎの国」をテーマに約140万球の光でライトアップ。平和大通りの南北緑地帯にテーマ別に複数のゾーンが設けられ、各スポットで趣向を凝らしたイルミネーションを実施。
(17)真宗大谷派広島別院
①幻の安芸本願寺 信長との講和に応じる前、顕如は安芸に移りたい希望を持っていたが毛利輝元は受け入れなかった。石山退城、教如は雑賀から大和.近江を経て天正9年(1581)近江慈敬寺証智(蓮如の孫:妻は元就の娘)とその長男教智(輝元の従弟)を連れて安芸に姿を現し教如の妻も仏護寺に落ち着く。輝元は、教如の為に円証(一心)寺を中町に建てたが、翌年寺は教智のものとなった。
② 東西本願寺分離の波紋 西日本の多くの末寺に当たる端坊、東坊の上寺の興正寺が西本願寺派を離れず東本願寺派に加わる寺は西日本には少なかった。円証(一心)寺の教智はさすがに東本願寺派に属し、後に教智は隠居寺の明信院に移り、円証(一心)寺の息子が無断で西本願寺派に転派、怒った教智は息子を義絶・追放し円証(一心)寺はなくなった。教智死後、明信院は安芸における東本願寺派の中心寺院となり現在は中区宝町に移転し真宗東派広島別院となっている。明信院の下寺の常念寺(日本に3幅しかない「真向の御尊像」がある)と因伝寺は明信院の輪番を務めた。
〈引用文書〉 新広島城下町・しろうや広島城・現地案内看板・瀬戸内歴史散歩・ウィキペディア
11月28日(土) 午後1時30分集合
縮景園の中に入ったところで。
参加費 300円(レジュメプリント)
☆建物内に入る時などはマスク必須でよろしくお願いいたします。
少雨決行
要申し込み 有田先生又はカモメまで。

ブラアリタ 令和2年11月28日(土)
縮景園→流川通り→薬研堀通り→新天地→田中町
(1)縮景園

①国の名勝、日本の歴史公園100選。広島藩浅野氏初代藩主浅野長晟が作らせた藩主の別邸(大名庭園)が起源で、最初の作庭は上田宗箇だが,宝暦8年(1758)宝暦の大火で城下は灰燼に帰し、7代藩主浅野重晟は京都から庭師清水七郎右衛門を呼び寄せ新作に近い大改修を行い天明8年(1783)完成。現在の庭園の原型が形成された。
②池の水は京橋川から水門によって引き入れ、末流は市街地を南流し上流川・下流川の町名の起源となった。
③日清戦争時、広島大本営が設置された際には「大本営副営」(明治天皇の宿泊所)となった。現在の広島県立美術館および広島市立幟町中学校の敷地の一部は元々は縮景園敷地であった。昭和15年(1940)浅野氏が広島県に寄贈。
④縮景園は空襲時の市民避難先に指定されていたため、原爆直後の園内は多くの被災者であふれた。この園内で命を落とした被爆者の遺体の大部分は火葬されたが、いくつかは火葬されず園内の丘に埋葬された。被爆直後に縮景園を訪れた朝日新聞の松本栄一カメラマンは、被爆して枯れた木の根元に遺体が埋葬された旨を記した立札を撮影しており、この写真にもとづいて発掘調査が実施され昭和62年(1987)64柱の遺骨が発見され、その場所には現在慰霊碑が建立されている。昭和24年(1949)広島平和記念都市建設法施行により復旧開始、本格的な復旧工事は昭和37年(1962)から始まり、1970年代にほぼすべて完了した。
(2)広島女学院
①明治19年(1886)に砂本貞吉が「広島女学会」で開設、木原秀三郎(元神機隊)も設立に尽力。アメリカから来日した宣教師のN・B・ゲーンスによって教育の基盤が整備された。中国地方では最も歴史の長いミッションスクール。
②著名な出身者 杉村春子 - 女優(教師として在籍)青山祐子 - 元NHKアナウンサー 戸田麻衣子 - 元女優。戸田菜穂の妹 杉浦圭子 - NHKアナウンサー等
(3)幟町中学校
①折り鶴の碑 敷地内(道路からも見ることは可能)にあり、他県の学校からも平和学習に訪れる。校舎裏には被爆エノキもある。②出身有名人 佐々木禎子(原爆の子の像のモデル)應武篤良(早稲田大学野球部監督)西田一生(振付師)緒方かな子(タレント・広島東洋カープ緒方孝市夫人)
(4)流川教会
①明治20年(1887)、砂本貞吉が中心となりアメリカ人宣教師ウォルター ラッセル ランバスの協力を得て創設。当時の教会堂は階下を教会の集会所として階上に女生徒を集めて女学校とし、広島女学院の母体となる。
②原爆投下時の主任牧師の谷本清は、教会やそれにまつわる人々の絆の復興と平和運動、原爆乙女の渡米治療運動や原爆孤児に対する精神養子運動を行った。谷本清平和賞が毎年平和のために尽力する個人や団体に授与され俳優の吉永小百合、『はだしのゲン』作者の中沢啓治、アーサービナード、学校法人広島女学院等が受賞している。
(5)世界平和記念聖堂
①明治15年(1882)幟町に教会が設けられた。一時期、山口町、研屋町に移転した期間を挟んで、明治35年(1902)には再び幟町にもどり、現在地に落ち着いた。第二次世界大戦の終りまで広島カトリック教会は「幟町天主公教会」と呼ばれ、この地にあったのは明治時代に建てられた古い和風(日本様式)の教会堂であった。②原爆投下によって倒壊・焼失、広島で被爆したエノミヤ・ラサール神父(日本に帰化し愛宮真備〈えのみや まきび〉)が、ローマ教皇をはじめ世界中の人々の協力を得て昭和25年(1950)8月6日に着工、4年の歳月をかけ昭和29年(1954)8月6日に落成し「世界平和記念聖堂」と名付けた。設計は常陸宮邸や兵庫県宝塚市庁舎を手がけた村野藤吾で、戦後の建築物として初めて平和記念資料館と共に国の重要文化財に指定された。
(6)常照山正光寺:浄土真宗本願寺派
①石山合戦を通じて毛利氏家臣の福原嶺綱は浄土真宗門徒(僧名は了知)となり郡山城下に小堂を建てたが、広島築城の際に東西40間・南北30間の寺地を貰って現在地に移転。福島氏時代に寺地を縮小された。②正光寺沼田郡石見町ありとの記述あり(知新集)。江戸時代、真宗大谷派の触頭(寺社奉行の命令の伝達役)となり、本願寺派に改派後は触頭は徳栄寺に交代した。③被爆した墓石・地蔵尊が現存している。
(7)薬研堀源流(幟町交番前付近)
①薬研堀:薬を調合する薬研の器に似た形 毛抜き堀:底の中心で石が合うような組み方。毛抜きに似ている 箱堀:箱の形になるように石を組む。②明治後期には堀はすでに埋められていた。
(8) 薬研堀一帯の惨状写真案内碑
(昭和20年11月松重美人氏撮影):被爆当日この地区で建物疎開作業が行われ多数の犠牲者、家屋は一瞬で倒壊し全て火の海となった。
(9)三越広島店
①江戸時代、広島藩の流川牢屋敷があった。②昭和44年(1969)まで中国新聞社の本社が置かれていた。その経緯により、現在でも建物は、中国新聞社の関連会社の『中国新聞文化事業社』が所有管理している。昭和48年(1973)4月8日に三越広島店として開店した。平成22年(2010)4月1日をもって株式会社広島三越として分社化された。
(10)胡神社
①元々、西光寺という寺の中にある神社が発祥。西光寺由来では、西光寺と胡堂は、毛利氏の時代、高田郡吉田(現在の安芸高田市吉田町)から高宮郡古市(現在の安佐南区古市)へ、その後さらに城下の西引御堂町へ移転し、福島氏の時代に胡町に移動したとされる。
② 胡子講: 11月17日から4日間開かれる祭り。地元の商店街では開催に合わせて大売出しが行われ「えべっさん」として親しまれる。(広島三大寺社祭りの一つ)商売繁盛の縁起物が飾られた熊手(こまざらえ)を発売するとともに、周辺の商店やデパートでは、一斉にバーゲンが行われ、中央通りが歩行者天国となり期間中は10万人以上の人手で賑わう。慶長8年(1603)の胡子神社建立より続く。熊手は明治34年(1901)の鎮座300年祭より売り出されるようになった。原爆被災の際も、わずか3か月後の11月20日に仮設のバラックの社殿で祭典が行われた。400年以上途切れずに胡子大祭は行われている。
(11)堀川町の曲がった電柱 店の袖看板に電線が当たらないように曲がった電柱を採用したとのこと。
(12) 広島新天地 ①本通りの東端に大正10年(1921)に出来た繁華街。映画館(新天地倶楽部.日進館)・劇場(新天座)・飲食店が軒を連ねた。周辺道路は入り組んでいたが、太平洋戦後、区画整理され新天地広場(現アリスガーデン)が作られ戦後間もなく公園にお好み焼きの屋台が集まり「お好み村」と言われた。
②紅桃稲荷大明神(新天地商店街の商売繁盛の守護神) とうかさんのいとこになると言われる。原爆の時、ご神体は疎開していた為被災は免れ、現在の所に移転した。東新天地駐車場上の公園に再興された。
(13)福昌山 慈善院 圓隆寺(日蓮宗)
①元和5年(1619)浅野長晟が僧・慈善院日音上人を開山に招聘して創建。毎年行われる夏祭りの名称でもある「とうかさん」は、当寺の鎮守であり、法華経を守護するとされる稲荷大明神のことで、稲荷を「とうか」と音読みしたのがその語源である。圓隆寺が建立されたのと同時に、日音により「稲荷(とうか)大明神」が勧請され、その神力により広島城の守りは言うに及ばず城下庶民への功徳救施は安寧と繁栄をもたらしたと伝えられている。戦時下でも「とうかさん大祭」は開かれたが、原爆投下により全壊焼失。昭和21年(1946)再興された。この年も「とうかさん大祭」の神事は続けられ、祭りの歴史が途切れることはなかった。
②三桝正典氏がコロナ終息祈願した奉納画「アマビコ」が観覧できる。「三神花菖蒲狐図屏風」も奉納されいている。③原惣右衛門元辰(赤穂義士)の墓 惣右衛門切腹後、安芸広島藩第5代藩主浅野吉長は惣右衛門の子が成長し播州で浪人しているいることを知り、妻子を広島に呼び寄せ、嫡男「原惣八郎辰正(重次郎)」を広島藩では享保8年(1725)20人扶持で召し抱える事にし後に250石に昇給した。惣右衛門の妻も熱心に「とうかさん」を信仰していたことから享保18年(1733)妻が亡くなり、惣八郎は両親の墓を建立した。原爆投下後、都市区画整理法により寺領を大幅に縮小した当山は、墓地を再建するにあたり一家に墓石一基と定め、原家も原惣右衛門夫妻の墓石を原家の墓と定めた。
(14) 日光山禅昌寺跡
①木原秀三郎(神機隊)の菩提寺。禅の道場。
②元和元年(1615)奈良県磯城郡田原本町味間の補厳寺(謡曲観世流の二祖世阿弥が出家得度の寺)第7世蘭裔守胤禅師(らんえい しゅいんぜんじ)の弟子、東庵守陽禅師により創建「僧東庵開基.境内神祠一宇あり(芸藩通志)」。無住となった端川寺(現:聖光寺)に4世大淵が入って端川寺を再開山した。度々の火災(寛政元年(1789)稲荷町から出火し179軒消失等)で復興、伽藍は、明治38年の震災で被害を被ったが大修繕されて、原爆により消失するまで存在していた。
②昭和40年、戸坂町くるめ木に境内を移転、昭和55年、広島市東区戸坂山根に境内を移した。
(15)田中町界隈
①福島時代 宣教師コーロスは、慶長9年(1604)広島教会を建て、場所は広島城下田中町の毛利家家臣佐世与三左衛門元嘉の旧屋敷(田中二軒屋敷)で、広島協会によりキリシタン(竹屋)新開にライ病病院も建てられた。キリストの布教活動を行ない、次第に信者数は増えた。正則は禁止令がでると領内の伝道を禁止し信者の処罰をはじめた。
②石川丈山 徳川家に仕える譜代武士の子。徳川家康の近侍となり信頼を得る。大坂夏の陣に参加し、軍令に反して抜け駆けの先登をしたため家康の賞するところとならず、浪人となり妙心寺に隠棲。元和3年(1617)頃、知人・林羅山の勧めによって藤原惺窩に師事し、儒学を学ぶ。病気がちな母を養うために紀州(和歌山県)の浅野家に仕官し、浅浅野家の転封に従って安芸・広島に赴き、13年ほど過ごした。広島城下田中町にあったキリシタン屋敷-二軒長屋跡を与えられた。強引に引退し京に出て、寛永13年に相国寺の近くに睡竹堂をつくり隠棲する。富士山 仙客来遊雲外巓 神龍棲老洞中渕 雪如ガン素煙如柄 白扇倒懸東海天
(16)広島デルミネーション
19回目を迎え、広島の冬の風物詩となった「ひろしまドリミネーション」。平和大通りをはじめとした広島市内中心部で、「おとぎの国」をテーマに約140万球の光でライトアップ。平和大通りの南北緑地帯にテーマ別に複数のゾーンが設けられ、各スポットで趣向を凝らしたイルミネーションを実施。
(17)真宗大谷派広島別院
①幻の安芸本願寺 信長との講和に応じる前、顕如は安芸に移りたい希望を持っていたが毛利輝元は受け入れなかった。石山退城、教如は雑賀から大和.近江を経て天正9年(1581)近江慈敬寺証智(蓮如の孫:妻は元就の娘)とその長男教智(輝元の従弟)を連れて安芸に姿を現し教如の妻も仏護寺に落ち着く。輝元は、教如の為に円証(一心)寺を中町に建てたが、翌年寺は教智のものとなった。
② 東西本願寺分離の波紋 西日本の多くの末寺に当たる端坊、東坊の上寺の興正寺が西本願寺派を離れず東本願寺派に加わる寺は西日本には少なかった。円証(一心)寺の教智はさすがに東本願寺派に属し、後に教智は隠居寺の明信院に移り、円証(一心)寺の息子が無断で西本願寺派に転派、怒った教智は息子を義絶・追放し円証(一心)寺はなくなった。教智死後、明信院は安芸における東本願寺派の中心寺院となり現在は中区宝町に移転し真宗東派広島別院となっている。明信院の下寺の常念寺(日本に3幅しかない「真向の御尊像」がある)と因伝寺は明信院の輪番を務めた。
〈引用文書〉 新広島城下町・しろうや広島城・現地案内看板・瀬戸内歴史散歩・ウィキペディア
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