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書から日本画に。

2020年01月31日
本日、陰山明枝小品展終了しました。

流れるような文字の背景は様々な版画の技法でその文の内容を表現してあります。
細やかな筆の息遣いが聴こえるような文字でした。
墨のたまりの微妙な強弱も美しいということを私は今回発見しました。

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飽き性で何か始めては直ぐやめる自分にはこの言葉が必要ではないか!!
と、思うので私これを購入しました。大切にしよう。




明日から二月。
松本香菜子 展  その場所へ
松本香菜子さんは、尾道市の圓鍔勝三彫刻美術館で学芸員をしながら日本画を描いています。
カモメで中島さんと二人の日本画展をされてから四年の月日が経っています。

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明日の初日2月1日(土)には午後5時から松本香菜子ギャラリートークとオープニングパーティーがあります。
昨年の夏に私はヨーロッパのギャラリーをいくつか回ってきましたが、作品展初日に日が暮れてドレスアップした作家やその作家のファンやコレクターの方たちがわらわらと集まってワイン片手に語り合っている場所に沢山出くわしました。
芸術が生活に根付いている空気を感じました。
良かったらどうぞ少しだけおしゃれして明日のトークとパーティを楽しみにお越しください。
(もちろん普段着でもパジャマでも!)
1ドリンクオーダーをお願いいたします。美味しいものもご用意してお待ちしています。
今回の作品展は中村浩郎さんのご厚意でアーティストの方々がそれぞれの専門分野で携わっておられます。
どうぞそれもお楽しみください。


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1月はいぬりますねー。

2020年01月28日
日記が滞りがちですが、カモメでは色々楽しいイベントも行われています。

◆ブラアリタには西条から福山からも沢山参加してくださいました。
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photo by さっちゃん

次回は吉島江波方面だそうです。詳細が決まったらお知らせいたします。


◆毎月第三木曜夜の朗読会では今回もめずらしい読み物が集まって楽しい一時間でした。

◆毎週土曜の朝の英語でおしゃべりの会は体調不良で欠席が多くて、こんな単語を覚えました。
注射    風邪をひく   めまいがする    咳が出る   血管
Injection  catch a cold  To feel dizzy  Cough   Blood vessels

◆たまたま鴎娘と誕生日が重なっていて皆さん色々ありがとうございました。

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万亀おじちゃんありがとう!
ぽんちゃんスーペーディネセテボーン!
みなさん色々ありがとうございました。

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新しいレンジも誕生日プレとして子供らに買ってもらってチーズケーキもかっこよく焼けるようになりました。



おまけの倉橋の海
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photo by 風呂部長

こっちはモロッコの海
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photo by Rachid



おまけのアトム
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もじゃもじゃ








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かな文字

2020年01月20日
1月18日(土)より、陰山明枝小品展始まりました。

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1月31日(金)まで。
大体午後より夕方まで書教室等の無い日は作家在廊の予定です。
明日火曜日はカモメは定休日です。



今年初めの池田一憲作品展も無事に終了しました。
お忙しい中を沢山お越しいただきましてありがとうございました。

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初日の「柿本人麿についての池田一憲の見分」についてのお話会にも沢山お越しいただきました。
わたしは歴史に弱くてよく分からなかったのでそれについての梅原猛書籍も一度読んでみたいと思いました。

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お茶を点ててくださっているのは、淨謙寺の若院さんです。
元々作家の三浦寿秀さんとのご縁で淨謙寺のイタリアン精進料理を食べに行ったのがきっかけで私は池田さんの絵と出合いました。
それからヒロセコレクションで釈迦十大弟子を観たことも池田さんの作品との強烈な出会いだったと思います。
いろんな方とのご縁でカモメでも作品をみせていただくことができました。ありがとうございます。

更に池田さんの最新作に随筆家の岡部伊都子さんのお顔が描かれていることから、竹富島に私がわずか半年暮らしていた時に子供たちが本を読みに通った岡部先生が作られたこぼし文庫を描こうとされていることが分かって驚いた今年の初めです。






おまけの写真

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その頃の写真です。↑
島のごみを回収するおじさん(チリトリオッサン・・・発音がありますから聞きたい人はカモメまで。)の水牛車に乗せてもらっていました。美しい島で心の温かい島の人たちに本当にお世話になりました。

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2020年の初句会

2020年01月18日
カモメのばぁばぁ「夜の美術館」句会報 第六十五号(令和二年一月)
一月十二日(日)、お天気にも恵まれ新年句会日和となった。
池田一憲さんの個展の会場をお借りして、初参加の浄謙恵照(俳号 こいんげ)さん、梢ゑさん、橘高享牧さんを含めて十七名の参加者で六時に、いつものように始まった。
(◎印は高点句、◯印は次点句 ○○○は原句修正箇所)
(清記逆順列記)
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兼題 「初一切」
◎三代で歩幅そろえて初詣  朋子
青春のフルコースだと初はしご  こいんげ
初釜や炭パチパチとはぜる音  走波
初出勤雨の渋滞横目に行く  えこ
初日の出人よりも日が人まもる  享牧
○初句会酒の肴はめざし焼く  風外
○阿呆とな枝を揺らして初鴉  六星
この道を行くか退くかと初みくじ  紺
昼過ぎてやっと出かける初詣  進
初空に世界平和を願う君  厚子
初刷に「ののちゃん」の頁探す朝  釜爺(旧下駄麿)
買初に赤と銀との箸二膳  麦
○婆たちのパプリカダンス初笑ひ  梢ゑ
初受診の夫待つコメダ珈琲店  ねむ女
あどけなき吾子初夢に何を観ゆ  愛幸
○初星や白のセダンの扉の重み  新治
買物の留守に初荷の不在票  茂樹
当季雑詠
セーターの毛玉取りつつ愚痴ひとつ  朋子
小寒や拾ひし義母の小さき骨  朋子
小寒に熱気集めるカモメかな  こいんげ
魂を温めあったお正月  こいんげ
廻廊に禰宜の沓音霜の朝  走波
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セーターの毛玉取りをり出かけ前  走波
大吉とあるも戒め多きみくじ  えこ
老幼のアンモニア臭去年今年  えこ
いき白したばこみたいにもくもくと  享牧
ふみ歩く落ち葉を軽くたんたんと  享牧
悪趣味だ豚の絵二枚書初に  風外
新年会フードバーにも超美人  風外
ダウンから羽毛飛び立つ明けの春  六星
漆黒の盆黒豆のほの甘し  六星
走り出す市電私も仕事初め  紺
ダイエット決意書きこむ初暦  紺
白き野を群れて鳴きゆく寒鴉  進
寒雀枝に並びて目白押し  進
○宴会に飽きて勝手の女正月  厚子
冬晴れの窓に放たれしカメムシ  厚子
「阿房列車」寝転んで読みはや三日  釜爺(旧下駄麿)
○ワイパーに滴ひとすじ冬静か  釜爺(旧下駄麿)
あちこちで挨拶交はすとんどかな   麦
餅搗や四代揃うて粉まみれ  麦
門口に籾殻こぼれ初雀  梢ゑ
◎それぞれに贔屓の木あり寒肥す  梢ゑ
○初旅は故郷よりの帰り道  ねむ女
ダ・ヴィンチの水の流れや去年今年  ねむ女
初釜や師の面差しもほころびて  愛幸
新年を職場で迎へ父強し  愛幸
○去年の湯に今年の茶葉の開きゆく  新治
日脚伸ぶ未来真白き児のあくび  新治
雨樋の水舐むる猫春近し  茂樹
ちらしなど壁に貼りつけ松納  茂樹
(句会寸描)
*兼題の「初一切」は、これまでで最多の参加者の中から、朋子さんが一位となった。雑詠の方は大接戦の中、初参加の梢ゑさんが一位となった。兼題は、幅広く季語が使えるせいか、馴染みの薄い季語も多かった。雑詠は、初句会らしく新年の季語も数多く見受けられた。今回は、初参加の人が小学生も含めて三名加わり、熱気溢れる句会となった。
*兼題「初一切」
◎三代で歩幅そろえて初詣  朋子
祖父母や親たちが、孫に歩幅を合わせて階段を上る姿が微笑ましい。ただ「初詣」の句は、毎年数多く詠まれているので、この類のものは類句が多いかも知れない。
○初句会酒の肴はめざし焼く  風外
気の置けない仲間同士で、賑やかな声も聞こえてくるような「初句会」の様子が伺える。ただ、季節感が薄いが「めざし」は春の季語なので別なものに置き換えた方がよさそうだ。
○阿呆とな枝を揺らして初鴉  六星
仮に下五が「寒鴉」ならありきたりに聞こえるが、「初鴉」は縁起の良いものなので、「阿呆」といわれても何かご利益があるかもしれない。
○婆たちのパプリカダンス初笑ひ  梢ゑ
最近「パプリカダンス」が流行っているようだ。本来は子供向けの曲のようだが、「婆たち」の踊る姿が絵になり、思わず笑いを誘う。
○初星や白のセダンの扉の重み  新治
正月に帰省した仲間が、車を飛ばして郊外に星を観に出かけたのであろうか。「初星」と「白のセダン」の取り合わせが、若々しい。
*当季雑詠
◎それぞれに贔屓の木あり寒肥す  梢ゑ
作者によると「それぞれ」はご夫婦のことのようだ。寒い中、「贔屓の木」に対する温かい眼差しが目に浮かぶ。「贔屓の木」だけに成長が楽しみである。
○宴会に飽きて勝手の女正月  厚子
「女正月」の本人の実感が素直に出ている。台所で、正月料理の残り物などつまみながら、ほっと一息ついている様子が思い浮かぶ。
○ワイパーに滴ひとすじ冬静か  釜爺(旧下駄麿)
出勤前に、車のエンジンをかけて車内を暖めているところであろうか。作者は、ワイパーにびっしりついていた霜が解けだしているところをタイミングよく活写した。
○初旅は故郷よりの帰り道  ねむ女
新年が明けて、見慣れた風景も新鮮に映る。それを「初旅」としたところが、面白い。
○去年の湯に今年の茶葉の開きゆく  新治
新しい年が明けたばかりだということが分かる。気分新たにお茶を楽しんでいる様子が伺える。ただ「去年」と「今年」の使い方が逆ではないかという意見も出た。
*次回予定
日時 二月二日(日)十八時~二十時
(ギャラリー展示の都合により、第二日曜の2月9日になる可能性もあります。追ってお知らせいたします。) 
場所 カモメのばぁばぁ
投句 兼題(二月)一句と当季雑詠を二句
「お詫び」
今回は、新しく参加された方々に、誤記のないように清記をお願いしましたが、私自身が、麦さんの句の清記を間違えてしまい申し訳ありませんでした。この場をお借りして深くお詫び申し上げます。
(茂樹 記)
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池田一憲 「ふるさとを守るこころ」

2020年01月14日
2005年に中国新聞に連載された池田一憲さんの文と絵を少しご紹介します。
 (画像が悪くて申し訳ありません。)

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池田一憲さん。



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掲載された中国新聞のコピーも持ってきていただきましたので、作品の横にかけてあります。

いっけんさんがカモメに来られるのは最終日の16日です。
最終日はpm5時までです。どうぞ!!






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一月のブラアリタのレジメです。

2020年01月14日
令和2年1月25日ブラアリタレジメ:広島城界隈 (文責 有田篤雄)

有田さんと郷土の歴史を学びながらブラブラ歩く会です。
 pm1:30 カモメに集合
 参加費(テキスト込み)200円+1ドリンクオーダー
 少雨決行
 急な参加でも大丈夫ですが、できればご予約をお願いします。


(1) 広島商工会議所
東京・大阪と並び1891年(明治24年)に認可を受けた日本の中で初期から活動。1936年(昭和11年)招魂社(広島護国神社)の跡地を購入、新築移転。8月6日、広島市への原子爆弾投下。爆心地から260m離れたところに位置し外郭は残ったが28人の職員は全員死亡。1948年、荒廃した広島で新たな観光施設として「原爆記念保存物」として指定され、国外からの観光客の多くがここを訪れた。12月5日開かれた広島カープ球団発会式に参加し石本監督は、この時点で契約選手が1人もいない事実を知った。現在の建物は、1965年(昭和40年)竣工。原爆ドームが世界遺産に登録され周辺の景観性が重視され本所の移転が検討されている。

(2) 広島城櫓下碑(外堀) 
広島城は毛利輝元から福島正則へ。入城した福島正則の増築以降に、城域となった外堀までの約90万平方メートルの範囲で本丸を中心に内堀・中堀・太田川の本流.支流をもって外堀とする惣構えの構造。堀に面したところには櫓が、特に城西側は13の櫓が単層・二層に設けられ広島城合計で88の櫓が組まれていた。
市内電車のやぐら下(現原爆ドーム前)停車場があった。
☆基町: 1887年(明治30年)毛利氏以来城郭の旧址であり、広島の開基地ともいうべき意で名付けた。丁目は無い。1888年(明治21年)5月、広島鎮台は第五師団に改編されると本格的に軍としての機能を拡大させ、広島市は軍都として近代都市へと発展していった。当時は基町全域が軍用地であった。

(3)広島市民球場跡
1952年「広島市にナイター設備を備えた球場を作ろう」と言い始めたのは、東洋工業の松田恒次社長だった。「旧日本軍西部第二部隊営庭跡地(元衛戊病院)」に地元建設会社の増岡組が購入したばかりのブルドーザー1台が連日フル稼働し、超々突貫工事の結果、1957年7月に完成し、以来2009年3月31日まで広島東洋カープの本拠地だった。

(4)西練兵場跡
第5師団下の歩兵第11連隊・歩兵第9旅団・野砲兵第5連隊・輜重兵第5大隊等の軍事訓練が行われた。原爆投下により被災者の治療・遺体処理が行われた(東広島・賀北部隊も参加)。1950年1月15日、広島カープチーム結成披露式が行われ、ファン約1万人の熱烈歓迎を受けて、空前絶後の"貧乏チーム"が誕生。選手は黙々と試合に臨み、当時の本拠地・広島総合球場は連日、満員に膨れ上がった。(たる募金)広島総合球場の正面入り口に中国新聞の野球部員が発案した2つの四斗樽が置かれそして昭和26年(1952)年末、支援金は目標額の400万円を突破して、球団存続が正式に決まった。当時のたる募金の樽は西条の酒蔵の福美人に展示してある。
①広島県庁 1871年 広島県発足。庁舎は広島城本丸御殿→三の丸→1873年 仮庁舎として国泰寺(小町)→1876年 失火により庁舎が全焼、仮庁舎を仏護寺(寺町)へ移転→1878年4月 本庁舎を水主町、現アステールプラザ付近に新築移転→1945年8月6日原子爆弾投下により本庁舎壊滅→同日戦災緊急避難先として多聞院が被爆直後の臨時の県庁として機能→8月7日朝 臨時県庁として東警察署(現広島銀行銀山町支店)に移転→8月20日、東洋工業(現マツダ)社長・松田重次郎より土地提供、東洋工業府中工場敷地内に移転→1946年庁舎を陸軍兵器補給廠(南区霞町、現広島大学霞キャンパス / 医学部・附属病院)→1956年4月 本庁舎を中区基町に新築。

(5)中堀堀跡
安土桃山~江戸時代(今から約410~140年前) 中央テニスコートの建設にともない調査が行われ200m以上にわたって中堀の跡が出土し、櫓台も確認された。堀の石垣は場所によって石の積み方や石の種類が異なっていること櫓台を造った後に石垣が築かれたことなどがわかる。(主な遺構)中堀跡.櫓台跡(主な遺物)陶磁器、土器、瓦

(6) 明治天皇使用井戸跡碑  
明治天皇のご飲料水 太田川等の水が庶民に飲まれていたが水質は悪く伝染病が多発していた。広島周辺で最も水質の良いところとして、己斐の五ツ井戸(庄屋・越智家)の水が選ばれ、後に基町に井戸が掘られる迄の間、毎朝早く輜重隊の馬車を改造して広島まで輜重兵が運んだ。天皇は牛乳を愛飲し、広島で牛乳が飲まれるようになり産業としてチチヤス牛乳等が生まれた。八本松停車場に給水用の井戸が掘られ明治天皇のご入浴用の水として機関車で運ばれた。

(7) )第五師団兵舎被爆碑 
天守閣を取囲むように並んでいた司令部や各部隊の木造2階兵舎等すべての建物は原爆により瞬時に崩壊・灰塵に帰す。司令部をはじめ、歩兵・砲兵・輜重兵の10000人が死傷した。

(8) 表御門・二の丸・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓 
①毛利秀就出生伝説 毛利輝元は、児玉元良女: 杉元宣の正室の周(かね)姫(ひめ)に恋慕し、杉元宣より略奪した。杉元宣は、輝元の悪行に激怒し天正17年(1589)、豊臣秀吉に直訴すべく出立。小早川隆景は、元宣殺害した。長州藩初代藩主の秀就は、秀就の母二の丸(周姫)が懐妊した時、財満就久は輝元ににかくまうよう(南の方(正室への遠慮)に命じられ、秀就の出生地は通説の二の丸でなく小野阿武瀬(山口県)で出生したという。②石垣と建物に囲まれ馬出しの機能を持っており、外部から外が見えにくく本丸から内部がよく見える構造になっており、近世城郭では特異な配置である。
(加工程度による石垣の分類)・野面積み 自然石をそのまま積み上げる方法で加工せずに積み上げただけなので石の形に統一性がなく、石同士がかみ合っていない。そのため隙間や出っ張りができ、敵に登られやすいという欠点があるが排水性に優れており頑丈である。技術的に初期の石積法で、鎌倉時代末期に現れ、本格的に用いられたのは16世紀の戦国時代のこと。野面積みの一種として穴太積みがあげられるが穴太衆が手掛けた石垣で穴太衆の技術の高さを誇示する為に江戸後期以降用いられた。・打込み接ぎ 表面に出る石の角や面をたたき、平たくし石同士の接合面に隙間を減らして積み上げる方法。関ヶ原の戦い以後、盛んに用いられた。野面積みより高く、急な勾配が可能。・切込み接ぎ
方形に整形した石材を密着させ、積み上げる方法。慶長5年(1600年)以降、隅石の加工から徐々に平石にまでわたるようになり、江戸時代初期(元和期)以降に多用されるようになった。石材同士が密着しているので排水できないため排水口が設けられる。

(9) 広島護国神社
1868年(明治元年)- 戊辰戦争に従軍して戦死した高間省三㊟ほか広島藩士78柱を祀る「水草神社」として二葉の里に建立。1876年(明治8年)- 官祭招魂社となる。1901年(明治34年)- 官祭広島招魂社と改称。1934年(昭和9年)- 社殿の老朽化に伴い、西練兵場(旧広島市民球場付近)の西端に移転。1939年(昭和14年) - 広島護国神社と改称。1945年(昭和20年) - 原爆により大鳥居以外は完全に破壊される。1947年(昭和22年) - 昭和天皇の広島行幸の際、この地に奉迎場を設置。1956年(昭和31年) - 現在地に再移転し、再建された。㊟1848-1868 広島藩士。砲術にすぐれ,戊辰戦争では藩の神機隊砲隊長として各地を転戦,慶応4年8月1日陸奥浪江駅(福島県)の戦いで戦死。21歳。名は正忠。
・第五師団 通称号/略称鯉 人員約25,000名 所在地広島-満州-北支-南支-マレー-インドネシア 主な戦歴日清戦争(漢城南方で清国軍と交戦 (成歓の戦い)僅か1日で決着がつき日本軍の勝利であったが、これは明治維新以後初めて日本の軍隊が外国軍と交戦した。この後平壌攻略戦、鴨緑江渡河作戦を経て奉天に進出、牛荘の戦いに参加)-日露戦争(沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦)-満州事変-シベリア出兵-支那事変(チャハル作戦. 京漢線作戦. 太原攻略戦. 徐州会戦.広東作戦.崑崙関の戦い. 北部仏印進駐)-太平洋戦争(帝国陸軍の精鋭部隊. 大本営直轄. 南方作戦マレー作戦. シンガポールの戦い. フィリピン作戦. ニューギニア作戦)
明治4年(1871)鎮西鎮台第一分室が広島城本丸に設置。明治6年(1873)広島鎮台に改組。広島鎮台(管轄する区域として軍管が定められ、第五軍管には広島と丸亀に営所、それぞれに歩兵連隊が1個ずつ)が置かれた。明治21年(1888)第5師団となる。島根・広島・山口出身の兵隊で編成。師管区が設定された後も引き続き第五師管区に属していた。大戦後半は地上戦に参加する機会はなく、島嶼防衛用の海洋編制師団への改編途上、セラム島で終戦を迎えた。終戦直前には橘丸事件を起こしている。師団長の山田清一中将と参謀長の浜島厳郎大佐は、8月15日敗戦の報に接すると橘丸事件の責任を取って自決した。

(10)半地下室の作戦司令室 
半地下室の作戦司令室/・無線通信室が設けられていた。通信室には軍人・軍属に混じって学徒動員された比治山女学校の生徒が働いていた。原爆で広島市内の全ての通信・電話設備は崩壊していたが、通信室に辛うじて生き残った女学生(地上にいた女子学生は殆ど死亡)がここの軍事用電話を使って広島崩壊を通信し、これが広島の原爆被災・壊滅の第一報となった。

(11) 大本営跡 
①本丸御殿→最初の広島県庁→第五師団本部→大本営→文化財
②1894年(明治27年)に勃発した日清戦争の戦争指揮のために広島城(第五師団司令部:現中区基町)内に設置された。明治29年(1896)大本営が解散された。解散後は建物・玉座は文化財として保存されたが、原爆により完全破壊された。金屏風は青崎国民学校に疎開していた為焼失を免れ、現在広島県立文書館に保管されている

(12)広島城天守閣名古屋城
岡山城と共に日本三大平城 に数えられる。2006年(平成18年)日本100名城(73番)に選定。毛利家臣団の中で比治山山頂に築城する案もあった。天正17年(1589)、中国地方の大半を領有していた毛利輝元によって水陸交通の便のよいこの地に築城が開始、石垣や堀、天守閣等の建物、城下町を含む大規模な工事が行われた。毛利氏は関ヶ原合戦の後移封され、江戸時代には福島正則、浅野長晟以下浅野氏12代の居城となった。1864年(元治元年)第一次長州征討の際、徳川慶勝を総督とする幕府軍の本営となる。この際、慶勝によって撮影された幕末の広島城の写真が現在徳川林政史研究所に残る。戊辰戦争になると広島藩は官軍として戦ったため、城に被害はなかった。つまり、築城から江戸時代の間、この城は戦の舞台にはならなかった。1926年(大正15年)10月大本営跡が史跡指定。それまで軍の敷地であったことから立入禁止だったが1928年(昭和3年)天守の一般開放が開始されている。1931年(昭和6年)1月天守が国宝保存法の国宝(旧国宝)に指定される。原爆によりすべての建物が全壊したが天守は爆風や火災によるものではなく、自壊している。1951年(昭和26年)、広島国体にあわせて木造仮設天守閣が作られたが国体終了後に解体された。天守閣は昭和33年(1958)に再建され、資料や模型等で広島の歴史を紹介する博物館となった。城跡内には江戸時代以前の石垣及び内堀が残り、国史跡に指定されている。

(13) 歩兵第11連隊(通称号/略称 鯉5173)跡碑  
上級単位 広島鎮台 - 第5師団
1875年(明治8年)5月 - 第23大隊を基幹に改編9月9日 - 軍旗拝受
1876年(明治9年)10月 - 萩の乱に出動 1877年(明治10年) - 西南戦争に従軍 1882年(明治15年) - 壬午事変に出動 1894年(明治27年) - 日清戦争に従軍 1900年(明治33年) - 北清事変に従軍 1904年(明治37年) - 日露戦争に従軍 大正期 - シベリア出兵に従軍1937年(昭和12年) - 日中戦争勃発、北京から沙河にいたり万里の長城沿いに作戦する。1938年(昭和13年) - 徐州会戦後、周辺の警備に当たり、青島へ移動したのち広東作戦に参加 1939年(昭和14年) - 魯北にて治安戦、10月から華南に移動し南寧に向かう。 1940年(昭和15年)9月 - 仏印に進入、フランス植民地軍を追撃しつつランソンからハノイを経てハイフォンへ向かう。1941年(昭和16年) - マレー作戦に参加、同地を占領後はスレンバンに駐屯し警備に当たる。1945年(昭和20年)8月 - 転進中に終戦(アラフラ海 ケイ諸島)。その過程において橘丸事件が発生する。病院船で軍隊輸送を行なう国際法違反行為だけでなく、航海中米軍に臨検・拿捕されたため同連隊の第1・第2大隊の全員(1500人以上の将兵)が無傷でそっくり捕虜になるという帝国陸軍最大の恥辱の一つとなった。後にこの責めを負い上級部隊である第5師団師団長山田清一中将・同参謀長浜島厳郎大佐は自刃し、南方軍総参謀長沼田多稼蔵、参謀副長(事件当時)和知鷹二、第2軍司令官豊嶋房太郎中将らが横浜法廷で有罪とされ刑に服した。

(14)中堀土塁跡 
広島高等裁判所敷地内(広島市中区上八丁堀2番43号)

(15) )陸軍幼年学校跡 
陸軍中央幼年学校条例(明治29年勅令第212号)および 陸軍地方幼年学校条例(明治29年勅令第213号)が制定。東京に陸軍中央幼年学校が置かれ下級学校として広島に広島陸軍地方幼年学校が設置され13歳から16歳で入校し3年間の教育が行われた。制服の襟に金星のマークがつけられたことから「星の生徒」と呼ばれ卒業後は陸軍予科士官学校に無試験で入学した。一時、国際的な軍縮の流で廃校。昭和11年(1936)中国での戦局が拡大しつつあるなか広島幼年学校が復活。原爆で校舎は壊滅したが在校生は,県下の吉田町,上下町,庄原市へ分散疎開していたため、人員の被害は少なかった。太平洋戦争の敗戦に伴い廃止された。

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池田一憲(いけだいっけん)作品展 大作紹介

2020年01月07日
池田一憲作品展二日目です。
できれば絵の前に立って本物を観ていただきたいと思いますが、遠方の方もおられますからSNSでも観ていただけるように写真を随時載せさせていただきます。
いっけんさんは初日のお話会でも、原爆での悲惨な歴史、今の社会の不穏な状況に怒りを覚えていると熱く伝えておられました。
絵の隅々にも思いが描かれています。
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蓮かぶりの像
法然と親鸞
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虚空菩薩像への祈り
今回の作品展のための新作ですが、未完成なのでまだ加筆の予定だそうです。
右下に描かれている女性は、岡部伊都子さんです。それについてはまた資料が届きましたらお伝えします。
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民話
子どものころの被爆体験の怖かった想いと怒りを描いておられます。
匹見の遠くまで原爆の爆風で紙や紙幣まで飛んできたそうです。
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法然 十大弟子
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聖徳太子と親鸞
会期中、作家のいっけんさんは遠方の為中々作品展会場に在廊できません。
今日は淨謙寺の若院の浄謙恵照さんが作品のお話と法話をしてくださいました。
池田いっけんさんと淨謙寺のご院家さんの親交が厚いことから息子の若院さんが本日は在廊して法話の時間とお茶席を設けてくださいました。
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おまけのアトム
写真はありませんが今日はアトムが生まれて初めてボール以外の狩りをしました。
獲物をしとめた後は意気揚々と「俺は強いぜ!」オーラを漂わせていました。✌
そのせいで、法話がチュー断してしまいましたからまたいつかもう一度法話とお茶会をお願いしましょう。
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2020年展覧会はじめ

2020年01月06日
大人になってからも「ごいんぎょさん」と言うのだと思っていて、いつか「ご院家さん(ごいんげさん)」が本当だと知り、今日は「じゃくいんさん」を教えてもらった。お寺の後継の若いお坊さんを若院と言うのだそうです。
今日から2020年の展覧会の幕開けです。「池田一憲作品展」
益田から、浄謙寺のご院家さんと若院さんと一緒にお泊まりで来てくださった池田一憲 いけだいっけんさんの作品は隅々にまで作者の想いが感じられます。


初日は、柿本人麿の考察についてのお話会がありました。


私は歴史にかなり弱くて難しいお話でしたがこれから少しずつ分かりたいと思いました。
若院さんのお茶席も次々とお抹茶をたてていただきました。


明日1/7も朝11時より午後4時までお茶席があります。
午後1時より浄謙恵照さんによる法話(みやすいお話)をお願いしましたので是非お越し下さい。
池田一憲さんは明日は在廊されませんが、若院さんが可能な範囲で説明をしてくださると思います。


おまけのアトム


間宮さんのひざに乗ったのは初めてかも~!😺

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