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郷土史を学びながらお散歩しましょ!

2019年11月11日
毎週土曜の朝には「英語でおしゃべりの会」をしています。
朝9:30~10:30です。
昨日の土曜朝は、会のみなさんで三滝散策に行きました。

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吉田さんに英語で三滝の名所をあちこちガイドしていただきました。
横川からは電車で一駅で紅葉も散策も楽しめる穴場ですよ。吉田さんにガイドしてほしい方はカモメにご一報ください。




久々のブラアリタのお知らせです。
今回はカモメではなく、直接不動院に午後1時半に集合です。
ご予約をお願いします。参加費200円。

令和1年11月23日ブラアリタレジメ(牛田界隈)

①不動院
山号新日山 真言宗別格本山 正式名 新日山(にひさん) 安国寺 不動院 天平2年(766)行基が開山といいわれる。
足利尊氏、直義兄弟が日本六十余州に設立した安国寺の一寺で、安芸安国寺として、安芸守護武田氏の菩提寺として繁栄。戦国時代には戦火により伽藍が焼失し武田氏も滅亡したが、毛利氏の外交僧安国寺恵瓊により復興された。豊臣秀吉から15000石の寺領が与えられた(新日山略縁起)。福島正則が入国し、正則の祈祷僧である宥珍が住持となり宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本尊とし不動院と称した。宥珍は福島正則が川中島へ転封の際正則に従った。浅野氏が広島に入ると浅野家歴代藩主の保護を受け、また藩主光晟より当山派修験の袈裟頭として芸備両国の山伏支配を命じられ明治に至った。原爆のとき、被爆者の受け入れ先として機能し、境内にはたくさんの負傷者で溢れかえった。
 不動院金堂(国宝)   安国寺恵瓊の墓                
  福島正則の墓      武田刑部少輔 (光和)の墓           
不動院金堂(国宝)は天井画に天文9年(1540)と記され室町時代の禅宗様の特徴。山口市の瑠璃光寺から移転。
木造薬師如来坐像・楼門・鐘楼・梵鐘は国指定重文、木造仁王立像は県指定重文。
②自在坂神社
不動院の鎮守社、祭神は八幡大神で「猿宮」とも呼ばれている。神田神社も合祀されている。
③日通寺
日通寺:光晟の正室.満姫(加賀国前田利家の孫)が川船で通る際立寄って茶を所望したのが縁で元禄5年(1692)建立されたと言う。境内には加賀前田家家紋の梅鉢紋入手水鉢がある。「日新館」があり300石以上の士分でないと山門はくぐれなかった格式のあった寺であった。日蓮宗不受不施派禁圧以降、浅野家は天台宗に改宗し菩提寺を国前寺から牛田の"日通寺"に変えた。後に天台宗から日蓮宗に改宗。5代綱晟は「日新館」跡地に延宝6年(1678)御茶屋を設け、歿後は東の新山に埋葬され藩主代々の墓所「浅野山」となった。
④広島市水道資料館
人々は太田川の水を直接、飲料水としていたが、水害が多発生、しばしばコレラや赤痢などの伝染病が流行したことから、水道の布設が強く望まれた。明治27年(1894)に日清戦争が起こり、広島市が軍事上の拠点となったことから、軍用水道とこれに接続する市民用水道として水道布設工事が進められた(有栖川宮熾仁親王は参謀総長として広島大本営に下るが、広島で腸チフスを発症)。広島市の水道は、明治31年(1898)創設、翌32年(1899年)1月1日に給水を開始した。神田橋水道橋は、当時旧日本軍の拠点であった広島城を結すび、猿猴橋水道橋は、牛田配水池から日清戦争以降兵站拠点となった宇品港を結ぶ軍用水道管だった。資料館は大正13年に建築された送水ポンプ室を改修したもので、昭和60年に館内外の展示により開館。建物は被爆建物として登録され、近代化産業遺産にも選ばれている。
⑤神田神社分社
文亀3年(1503)安芸武田氏当主武田元繁が佐東銀山城(武田山、安佐南区)の守護神として甲斐国から神田八幡宮を勧進、現在の東区スポーツセンターあたりに奉遷した。明治22年(1889)この付近が軍用地となり、神田神社は宇品へ移転。これを惜しんだ地元住民により軍用地のそばに神田神社の分社が祀られた。戦後、軍用地が市に払い下げられ再整備された際にその分社一帯は浄水場敷地内となり、現在の神田神社分社となった。8月6日の広島平和記念式典では、ここの手水鉢から献水を供えている。
⑥ピカドンたけやぶ
爆心地から北東に約2・5キロ。住宅街の中に青々と茂った竹やぶ。中に防空壕がある。原爆が投下された時、多くの人が避難した。その実話を基にした絵本「ピカドンたけやぶ(はらみちをが創作)」。1983年の出版後、ドラマやミュージカルになった。今でも「ピカドンたけやぶ合唱祭」が毎年開かれ、竹やぶを守る会もある。
⑦早稲田神社
(由緒)古文書に『文亀三年工事を起し、爾来数年にして通常平地を一変し、一小丘を作り、永正八年九月十五日、ここに神霊を安置せり。よって今に至るも、「垚八幡宮」又は「垚の宮」と称す』とある。
亦、古老に依れば、武田氏不動院の向いの武田山山上に安芸の国の守護職の武田氏が居城銀山城を建てられたが、その居城より展望すれば牛田のあたりは方位が鬼門に当る処から平安を祈り源氏方の守護神である八幡神を祀り、見立山に「神田神社」、早稲田山に「早稲田神社」を建立したと伝えられる。
(御祭神) 帯中津日子命•品陀和気命 •息長帯日売命
・早稲田神社東側斜面遺跡 昭和32年(1957),早稲田神社の再建工事の際に発見された弥生時代中期後半(約2,000年前)の土擴墓(どこうぼ)。土擴は上縁の直径1.5m,深さ1.5mで,底には20~30cm大の石がすり鉢状におかれていた。土壙の底から70~80cm上部から,頭蓋骨,下顎骨(熟年男性)の一部が検出された。円筒形の土壙のなかに,座位屈葬の形で埋葬したものと推定される珍しい例である。土壙の上面には,ハマグリ・カキなどを中心とする小貝層があり,弥生時代中期後半の土器片や石鏃(せきぞく)が出土した。なお,西側傾斜面には,縄文時代早期(約9,000~6,000年前)の遺物包含層が分布し,押型文土器や石鏃などが多数採集された。
⑧安楽寺
永享元年(1429)天台宗法大寺として建立。天文2年(1533)浄土真宗に改宗。宝歴8年(1758)の広島城下の大火で焼失、天明8年(1788)、本堂が再建された。爆心地から2.19キロメートルで被爆、本堂や山門は骨組みだけとなり、庫裡も倒壊し本堂は現在も北に傾いたままで、軒裏には焼け焦げた跡が残る。境内には原爆の類焼から守ってくれた大イチョウが、今もそびえる。木造如意輪観音菩薩坐像は、市内で最古の観音像として広島市重要有形文化財に指定されている。
⑨神田橋
寛文4年(1664)広島藩浅野氏2代藩主浅野光晟時代に、神田神社への参道筋として木橋が架橋された。名の由来は神田神社から来ている。元禄5年(1692)浅野家は菩提寺を牛田の"日通寺"に変えたことから、広島城から菩提寺へ向かう参道筋にあった唯一の橋でもあった。江戸時代当時は防犯上の理由により橋の架橋は制限されていた。主要ルートである西国街道筋の橋(猿猴橋・京橋・元安橋・本川橋・天満橋・福島橋・己斐橋)と、雲石街道筋の橋(横川橋)と、城下には8橋しかなく、神田橋はその中でも最も長い60間(約109m)の長さを誇り唯一街道筋ではない橋であった。原爆被災。爆風方向にかかっていたため、白島寄りが部分陥没して渡るのに危険な状況であったが落橋はしなかった。そのため、上流側の工兵橋と共に市内から郊外への避難経路として使用された。南側の白島町は全滅、南詰にあった民家から出火し町内全域全焼している。太田川に浮かぶ死体が満潮時に上げ潮に乗ってこの付近まで流れ着いた。昭和37年(1962)現在のものに架け直された。

(引用文献)広島城北大絵図、瀬戸内歴史散歩,現地案内版,ウィキペディア他


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