お待たせしました! 9月のブラアリタのレジメです。
2018年09月14日
猛暑の夏も去り、そろそろブラアリタの再開です!




有田篤雄さんに歴史の話をお聴きしながら広島のあちこちをぶらぶら歩く会です。
どなたでも。少雨決行!
参加希望の方は、当日午後1時半にカモメのばぁばぁまで。
参加費 200円(テキスト含む) と1ドリンクオーダーをお願いします。
できれば予約をお願いします。(急な参加も受け付けてくださいます。)
ブラアリタレジメ 平成30年9月24日(月)安芸門徒等を訪ねて
寺町・旧西御堂町(出雲石見街道)→本川小学校→猫屋町→小網町(西国街道)→中広通り→カモメのばぁばぁ
崇徳学園
仏護寺にあった進徳教校は後に明治16年(1883)2月、現在地(楠木町)に移ったが、同地の太田川河原での造成工事は安芸門徒の勤労奉仕でなされ完成までの延人数は45108人。開校式に臨んだ本願寺第21世明如から進徳教校に「崇徳」の称号を授けたことから、真宗進徳教社から真宗崇徳教社へ。その後、進徳教校広島仏教中学、第四仏教中学と改称し、明治45年(1912)に本願寺は第四仏教中学を兵庫県の六甲山に移した。・大正2年(1913)4月、旧制崇徳中学校が、崇徳教社を経営母体として楠木の地に開校した。
(1)広島別院
① 旧仏護寺:(武田氏)中山→祇園龍原→中山(毛利氏)祇園龍原→小河内
(福島氏)小河内→寺町へ移転。西側の寺(報専坊から超専寺)は出雲石見街道に面し東側の寺(仏護寺から真行寺)は横向きに建ち出雲石見街道側に向ければ広島城に脊を向けることになる→広島城天守閣から丸見えに設計された。
②厳島合戦(仏護寺超順と川ノ内衆)参加・石山合戦で活躍=唯順は塩飽水軍に讃岐沖で討取られた。
③教如来る伝説=幻の安芸本願寺
④教善寺(東広島市西条)・西福寺(東広島市吉川)等48寺直末、孫末・又孫末合計374ケ寺 (仏護寺12坊・14ケ寺と浄専寺は含まず)あった。
⑤元禄14年(1701)境内非境内論争。仏護寺経済的苦境→広島藩から毎年米200俵等の援助。
⑥三業惑乱: 因順(徳山藩主の弟。仏護寺13代住職)。大瀛が著したアンチ三業帰命説の決定版「横超直道金剛錍」の序文も書くなど積極的に支援。
⑦明治8年(1875)に本願寺派・大谷派の共同で寺院子弟の就学の便を図るために学仏場(広島市胡町)を設けた。後に本派本願寺が各地に小教校の設置を計画し進徳教校(円龍寺・真行寺→西引御堂の山田屋)を置く。明治11年(1878)仏護寺(現広島別院)に二棟の校舎を新築移転。明治15年真宗進徳教社創立。
⑧上下寺関係が本派本願寺を本山とし他の寺院は全て本願寺の直末とする本末関係の一本化は仏護寺等上寺は大きな痛手を伴った。広島県内に本山別院がないこと. 仏護寺の檀家が少なく末寺として維持が困難であることを理由として本山へ仏護寺を本山の別院とすることを要請し、本山は了承した。明治35年広島別院(本山に準じる)仏護寺、明治37年別格別院(親鸞の連枝が住職)仏護寺、明治41年本願寺広島別院(法主が住職)となる。
(2)報専坊
①実相山法泉寺という真言宗から文明年間(1469から1486)に浄土真宗に改宗。
②仏護寺12坊 仏護寺直末。
③ 芸轍の慧雲が報専坊住職で「神棚おろしの報専坊」と呼ばれ「講」の普及、「甘露社」で大瀛.僧叡.履善.雲幢.海蔵.因順.興譲.大運等の弟子を育てた。境内非境内論争
④爆心地より1130mで全壊、住職他4名が亡くなった。被爆銀杏(樹齢150年)。現在の本堂は、1993年(平成5年)に再建された。
(3)光福寺
仏護寺12坊 仏護寺直末。 往古は、賀茂郡志和堀にあり真言宗(禅宗とも)。山号は正徳年間(1711~1716)無量山から嶽扇山と定め志和扇山の名前を用いて出所を忘れないこことする『知新集』
一当山末寺 京六条境内興正寺 興正寺末六条境内東坊 東坊末寺芸州仏護寺 仏護寺末芸州光福寺 光福寺末同国西品寺 西品寺末同国順教寺
(4)円龍寺
①時宗から浄土真宗へ。広島城開発の時、広島小河内(打越)へ福島正則の時寺町へ。
②仏護寺12坊 仏護寺直末
③境内非境内論争で住職は投獄された
④原爆で全焼。国道54号建設で40%を失い現在の敷地となった。
(5)正善坊
①往古は石見国森原、真言宗から改宗
②塩飽水軍に讃岐沖で蓮西討取られた(石山合戦)
③仏護寺12坊 仏護寺直末。 境内非境内論争
(6)光円寺
①往古は安芸郡牛田村風呂で真言宗。浄土真宗に改宗後、本願寺と号したが後に東林坊と改めた。
②厳島合戦で仏護寺超順が川ノ内衆.東林坊願通が仁保島衆を率いて毛利方で活躍した。
③福島正則の時、光円寺と改めた。
④仏護寺12坊 仏護寺直末。 境内非境内論争
(7―1)被爆手水鉢
産業奨励館(原爆ドーム)付近の民家の住人が使用していたもの。住人は亡くなったが、黒焦げた手水鉢は残った。戦後、原爆ドーム付近でお土産屋(吉川さん)が訪れる人に原爆の恐ろしさを伝えていた。平成19年本川小学校に寄贈された。
(7―2)本川小学校・平和資料館
旧校舎竣工年月日 1928(昭和3)年7月(広島市内で最初の鉄筋校舎)
(出身者)鈴木三重吉-小説家、児童文学者。田部文一郎-三菱商事元社長。中沢啓治 - 漫画家。被爆後から卒業までの数年間在学。平岡敬 - 元広島市長。5年から6年途中まで在学
①爆心地に一番近い小学校(約410m)。校舎は外部を残して全焼・壊滅し、校長ほか10人 の教職員と1、2年生の子どもたち約400人のうち先生1人、生徒1人のみが奇跡的に助かった。
②校舎は、翌日から臨時救護所となり負傷者であふれ、校庭では死亡した人たちが数多く焼かれた。
③翌年2月には、最小限の補修をした校舎で授業が再開。被爆校舎は、その後も補修・改修を繰り返し利用されてきが、1988(昭和63)年4月、新校舎の落成とともに、被爆校舎の一部と地下室だけを残して撤去された。
④被爆校舎の一部と地下室は、「平和資料館」として整備・保存され、1988(昭和63)年5月開館した。
⑤中沢啓治氏が描いた『はだしのゲン』に登場する学校。
(8)明教寺(広島市中区猫屋町)
①照林坊末寺高林坊末寺明教寺が原点。毛利氏家臣西願が輝元に従い甲立から広島城下に寺地を移した。毛利氏が移封の際、実子・浄教に譲り西願は長州へ。
② 寛延3年(1613)東本願寺派へ改宗→西本願寺派
③ 明治4年、浄土真宗の衰退に危機感を抱いた門徒有志10名(大高十郎.桑原利兵衛.野村保兵衛等)が、法話会「十名講」を開く。活動資金を得るため、傘の骨作り等をした。
(9)闡教社・光道小学校跡(広島市中区猫屋町)
① 得た活動資金や講員の寄付で災害地へ慰問品を贈ったり政府の外債償還の一部として700円の拠金を計画したが700円は不要となった。明教寺院内寺院(万福寺)に寺小屋を基盤に鉄筋コンクリート造り3階建ての私塾「光道館」を建てた。真宗安芸門徒子弟の教育機関として本格的な運営が始まると、明治17年に至って私立小学校に発展、当時名門と知られ、大正12年広島国民学校と改称、翌年幼稚園も開設された。原爆により校舎は外部を残して全焼・壊滅し昭和20年11月廃校。
②明治12年、「闡教社」(のち「闡教部」)の成立を見、明治33年財団法人となる。向道小学校の運営資金調達の為、広島合同ミルク(チチヤスの前身)、向西館(火葬場)がある。
(猫屋町)西国街道沿い。府中町松崎八幡宮神官の出と言われる加藤九郎左衛門が猫屋という屋号でこの地で店を開いたのが由来と言われる。
(10)西遊郭跡
「全国遊廓案内」(昭和5年)によれば、昭和初期、広島には2つの遊廓が紹介、下柳町にあった東遊廓と小網町(元は広瀬村の一部で網打を業とする漁民が多く網打小路と呼ばれた。出身者に平幹二朗がいる)から舟入町の西遊廓。昭和5年時、貸座敷55軒、娼妓は約300人居たとある。明治25年から昭和33年の売春禁止法施行まで続いた。
城下町には街道には6つの橋がかかり、西国街道で西へ向かうときに3番目に渡る天満橋(小屋橋)。安土桃山時代、毛利輝元が広島城および城下を整備する時に、この地に普請小屋を置き、「小屋新開」「小屋新町」と呼ばれ、河川は「小屋川」、架かる木橋を「小屋橋」と呼ばれた。
(11)天満宮
①天満町は江戸時代初期は元小屋新町。火災・水災が頻発し町の有力者(綿屋七衛門知孝.田中屋嘉三次幸福等)により天明8年に尾長天満宮より分霊し、同年これにちなみ天満町とした。『知新集』石工・井戸掘り職人の町
②街並みを描いた金属製の地図と被爆建物。
(地名の由来)中広町:中小屋新開と広瀬組。打越町: 定期的な洪水の被災地であり、冠水の際には横川の堤防の一部を破壊して内部の水を排水したため「内越」と呼ばれた。
(12)向西館跡
(広島市西区中広1丁目)川土手の雑草地で適当に穴を掘っては火葬していた。
光道館私立小学校の運営資金獲得、闡教社財源確保のため、明治18年、闡教部と打越村中小屋集落の安芸門徒住民が寄付金を集めて約228坪 (うち48坪は墓地用)の用地を購入、広島市内の財閥10名より建設資金の協力を得て、向西館を建設。明治19年、有限合資会社 向西館が設立され有料火葬場となった。昭和20年2月、土地建物設備の一切を広島市に譲渡し合資会社は解散、以降広島市営。昭和37年、高天原の新火葬場完成にて廃止。
(13)ミルク会社跡(想定地)
光道館私立小学校の運営資金獲得、闡教社財源確保のため、明治19年、野村保氏が発起人となり財界人集結し、広島合資ミルク会社が発足。京都府立牧場と広島県立農学校から6頭の乳牛を購入、細々と搾乳販売を始めた。山陽鉄道(山陽本線)の延伸、日清戦争に伴う広島の軍都化で消費人口が拡大、また牛肉を用いた?ソップ(スープ)を売り出したところ、牛乳(広島は上水道が未整備。明治天皇は水代わりに愛飲した)以上の評判を得て牧場の収益化に貢献した。保氏は、関係者との意見衝突を機に、明治35年、会社から身を引き後のチチヤスへ。
㈱フレスタ 1887年(明治20年)横川で駄菓子屋を創業。1947年(昭和22年) 戦後の焼け跡に青果堂として店を再開。1951年(昭和26年)有限会社「山城屋」として会社設立。1960年(昭和35年)株式会社「主婦の店ムネカネ」と改名。横川駅に広島で最初のスーパーマーケット誕生。広島市を中心に店舗を展開し、福山市や岡山市、岩国市にも店舗展開をしている。
横川駅
①JR 1897年(明治30年)9月25日 - 山陽鉄道 広島駅 - 徳山駅間延伸時に開業。
②広島電鉄 1917年(大正6年)11月1日 - 広島瓦斯電軌(広島電鉄の前身)横川線開業。現在の横川駅付近に横川駅前電停、その先に三篠(みささ)電停が設置。
③横川駅国産乗合バス発祥の地。
(引用・参考文献:安芸門徒・水原文雄著 近代真宗の展開・熊田重邦著 瀬戸内歴史散歩.瀬戸内の仏教・有田篤雄著
東広島歴史辞典・渓水社 ウィキペディア)
おまけのアトム

自分と同じくらいの大きさか自分より小さい子とは仲良く遊べてしっぽも下がりません。





有田篤雄さんに歴史の話をお聴きしながら広島のあちこちをぶらぶら歩く会です。
どなたでも。少雨決行!
参加希望の方は、当日午後1時半にカモメのばぁばぁまで。
参加費 200円(テキスト含む) と1ドリンクオーダーをお願いします。
できれば予約をお願いします。(急な参加も受け付けてくださいます。)
ブラアリタレジメ 平成30年9月24日(月)安芸門徒等を訪ねて
寺町・旧西御堂町(出雲石見街道)→本川小学校→猫屋町→小網町(西国街道)→中広通り→カモメのばぁばぁ
崇徳学園
仏護寺にあった進徳教校は後に明治16年(1883)2月、現在地(楠木町)に移ったが、同地の太田川河原での造成工事は安芸門徒の勤労奉仕でなされ完成までの延人数は45108人。開校式に臨んだ本願寺第21世明如から進徳教校に「崇徳」の称号を授けたことから、真宗進徳教社から真宗崇徳教社へ。その後、進徳教校広島仏教中学、第四仏教中学と改称し、明治45年(1912)に本願寺は第四仏教中学を兵庫県の六甲山に移した。・大正2年(1913)4月、旧制崇徳中学校が、崇徳教社を経営母体として楠木の地に開校した。
(1)広島別院
① 旧仏護寺:(武田氏)中山→祇園龍原→中山(毛利氏)祇園龍原→小河内
(福島氏)小河内→寺町へ移転。西側の寺(報専坊から超専寺)は出雲石見街道に面し東側の寺(仏護寺から真行寺)は横向きに建ち出雲石見街道側に向ければ広島城に脊を向けることになる→広島城天守閣から丸見えに設計された。
②厳島合戦(仏護寺超順と川ノ内衆)参加・石山合戦で活躍=唯順は塩飽水軍に讃岐沖で討取られた。
③教如来る伝説=幻の安芸本願寺
④教善寺(東広島市西条)・西福寺(東広島市吉川)等48寺直末、孫末・又孫末合計374ケ寺 (仏護寺12坊・14ケ寺と浄専寺は含まず)あった。
⑤元禄14年(1701)境内非境内論争。仏護寺経済的苦境→広島藩から毎年米200俵等の援助。
⑥三業惑乱: 因順(徳山藩主の弟。仏護寺13代住職)。大瀛が著したアンチ三業帰命説の決定版「横超直道金剛錍」の序文も書くなど積極的に支援。
⑦明治8年(1875)に本願寺派・大谷派の共同で寺院子弟の就学の便を図るために学仏場(広島市胡町)を設けた。後に本派本願寺が各地に小教校の設置を計画し進徳教校(円龍寺・真行寺→西引御堂の山田屋)を置く。明治11年(1878)仏護寺(現広島別院)に二棟の校舎を新築移転。明治15年真宗進徳教社創立。
⑧上下寺関係が本派本願寺を本山とし他の寺院は全て本願寺の直末とする本末関係の一本化は仏護寺等上寺は大きな痛手を伴った。広島県内に本山別院がないこと. 仏護寺の檀家が少なく末寺として維持が困難であることを理由として本山へ仏護寺を本山の別院とすることを要請し、本山は了承した。明治35年広島別院(本山に準じる)仏護寺、明治37年別格別院(親鸞の連枝が住職)仏護寺、明治41年本願寺広島別院(法主が住職)となる。
(2)報専坊
①実相山法泉寺という真言宗から文明年間(1469から1486)に浄土真宗に改宗。
②仏護寺12坊 仏護寺直末。
③ 芸轍の慧雲が報専坊住職で「神棚おろしの報専坊」と呼ばれ「講」の普及、「甘露社」で大瀛.僧叡.履善.雲幢.海蔵.因順.興譲.大運等の弟子を育てた。境内非境内論争
④爆心地より1130mで全壊、住職他4名が亡くなった。被爆銀杏(樹齢150年)。現在の本堂は、1993年(平成5年)に再建された。
(3)光福寺
仏護寺12坊 仏護寺直末。 往古は、賀茂郡志和堀にあり真言宗(禅宗とも)。山号は正徳年間(1711~1716)無量山から嶽扇山と定め志和扇山の名前を用いて出所を忘れないこことする『知新集』
一当山末寺 京六条境内興正寺 興正寺末六条境内東坊 東坊末寺芸州仏護寺 仏護寺末芸州光福寺 光福寺末同国西品寺 西品寺末同国順教寺
(4)円龍寺
①時宗から浄土真宗へ。広島城開発の時、広島小河内(打越)へ福島正則の時寺町へ。
②仏護寺12坊 仏護寺直末
③境内非境内論争で住職は投獄された
④原爆で全焼。国道54号建設で40%を失い現在の敷地となった。
(5)正善坊
①往古は石見国森原、真言宗から改宗
②塩飽水軍に讃岐沖で蓮西討取られた(石山合戦)
③仏護寺12坊 仏護寺直末。 境内非境内論争
(6)光円寺
①往古は安芸郡牛田村風呂で真言宗。浄土真宗に改宗後、本願寺と号したが後に東林坊と改めた。
②厳島合戦で仏護寺超順が川ノ内衆.東林坊願通が仁保島衆を率いて毛利方で活躍した。
③福島正則の時、光円寺と改めた。
④仏護寺12坊 仏護寺直末。 境内非境内論争
(7―1)被爆手水鉢
産業奨励館(原爆ドーム)付近の民家の住人が使用していたもの。住人は亡くなったが、黒焦げた手水鉢は残った。戦後、原爆ドーム付近でお土産屋(吉川さん)が訪れる人に原爆の恐ろしさを伝えていた。平成19年本川小学校に寄贈された。
(7―2)本川小学校・平和資料館
旧校舎竣工年月日 1928(昭和3)年7月(広島市内で最初の鉄筋校舎)
(出身者)鈴木三重吉-小説家、児童文学者。田部文一郎-三菱商事元社長。中沢啓治 - 漫画家。被爆後から卒業までの数年間在学。平岡敬 - 元広島市長。5年から6年途中まで在学
①爆心地に一番近い小学校(約410m)。校舎は外部を残して全焼・壊滅し、校長ほか10人 の教職員と1、2年生の子どもたち約400人のうち先生1人、生徒1人のみが奇跡的に助かった。
②校舎は、翌日から臨時救護所となり負傷者であふれ、校庭では死亡した人たちが数多く焼かれた。
③翌年2月には、最小限の補修をした校舎で授業が再開。被爆校舎は、その後も補修・改修を繰り返し利用されてきが、1988(昭和63)年4月、新校舎の落成とともに、被爆校舎の一部と地下室だけを残して撤去された。
④被爆校舎の一部と地下室は、「平和資料館」として整備・保存され、1988(昭和63)年5月開館した。
⑤中沢啓治氏が描いた『はだしのゲン』に登場する学校。
(8)明教寺(広島市中区猫屋町)
①照林坊末寺高林坊末寺明教寺が原点。毛利氏家臣西願が輝元に従い甲立から広島城下に寺地を移した。毛利氏が移封の際、実子・浄教に譲り西願は長州へ。
② 寛延3年(1613)東本願寺派へ改宗→西本願寺派
③ 明治4年、浄土真宗の衰退に危機感を抱いた門徒有志10名(大高十郎.桑原利兵衛.野村保兵衛等)が、法話会「十名講」を開く。活動資金を得るため、傘の骨作り等をした。
(9)闡教社・光道小学校跡(広島市中区猫屋町)
① 得た活動資金や講員の寄付で災害地へ慰問品を贈ったり政府の外債償還の一部として700円の拠金を計画したが700円は不要となった。明教寺院内寺院(万福寺)に寺小屋を基盤に鉄筋コンクリート造り3階建ての私塾「光道館」を建てた。真宗安芸門徒子弟の教育機関として本格的な運営が始まると、明治17年に至って私立小学校に発展、当時名門と知られ、大正12年広島国民学校と改称、翌年幼稚園も開設された。原爆により校舎は外部を残して全焼・壊滅し昭和20年11月廃校。
②明治12年、「闡教社」(のち「闡教部」)の成立を見、明治33年財団法人となる。向道小学校の運営資金調達の為、広島合同ミルク(チチヤスの前身)、向西館(火葬場)がある。
(猫屋町)西国街道沿い。府中町松崎八幡宮神官の出と言われる加藤九郎左衛門が猫屋という屋号でこの地で店を開いたのが由来と言われる。
(10)西遊郭跡
「全国遊廓案内」(昭和5年)によれば、昭和初期、広島には2つの遊廓が紹介、下柳町にあった東遊廓と小網町(元は広瀬村の一部で網打を業とする漁民が多く網打小路と呼ばれた。出身者に平幹二朗がいる)から舟入町の西遊廓。昭和5年時、貸座敷55軒、娼妓は約300人居たとある。明治25年から昭和33年の売春禁止法施行まで続いた。
城下町には街道には6つの橋がかかり、西国街道で西へ向かうときに3番目に渡る天満橋(小屋橋)。安土桃山時代、毛利輝元が広島城および城下を整備する時に、この地に普請小屋を置き、「小屋新開」「小屋新町」と呼ばれ、河川は「小屋川」、架かる木橋を「小屋橋」と呼ばれた。
(11)天満宮
①天満町は江戸時代初期は元小屋新町。火災・水災が頻発し町の有力者(綿屋七衛門知孝.田中屋嘉三次幸福等)により天明8年に尾長天満宮より分霊し、同年これにちなみ天満町とした。『知新集』石工・井戸掘り職人の町
②街並みを描いた金属製の地図と被爆建物。
(地名の由来)中広町:中小屋新開と広瀬組。打越町: 定期的な洪水の被災地であり、冠水の際には横川の堤防の一部を破壊して内部の水を排水したため「内越」と呼ばれた。
(12)向西館跡
(広島市西区中広1丁目)川土手の雑草地で適当に穴を掘っては火葬していた。
光道館私立小学校の運営資金獲得、闡教社財源確保のため、明治18年、闡教部と打越村中小屋集落の安芸門徒住民が寄付金を集めて約228坪 (うち48坪は墓地用)の用地を購入、広島市内の財閥10名より建設資金の協力を得て、向西館を建設。明治19年、有限合資会社 向西館が設立され有料火葬場となった。昭和20年2月、土地建物設備の一切を広島市に譲渡し合資会社は解散、以降広島市営。昭和37年、高天原の新火葬場完成にて廃止。
(13)ミルク会社跡(想定地)
光道館私立小学校の運営資金獲得、闡教社財源確保のため、明治19年、野村保氏が発起人となり財界人集結し、広島合資ミルク会社が発足。京都府立牧場と広島県立農学校から6頭の乳牛を購入、細々と搾乳販売を始めた。山陽鉄道(山陽本線)の延伸、日清戦争に伴う広島の軍都化で消費人口が拡大、また牛肉を用いた?ソップ(スープ)を売り出したところ、牛乳(広島は上水道が未整備。明治天皇は水代わりに愛飲した)以上の評判を得て牧場の収益化に貢献した。保氏は、関係者との意見衝突を機に、明治35年、会社から身を引き後のチチヤスへ。
㈱フレスタ 1887年(明治20年)横川で駄菓子屋を創業。1947年(昭和22年) 戦後の焼け跡に青果堂として店を再開。1951年(昭和26年)有限会社「山城屋」として会社設立。1960年(昭和35年)株式会社「主婦の店ムネカネ」と改名。横川駅に広島で最初のスーパーマーケット誕生。広島市を中心に店舗を展開し、福山市や岡山市、岩国市にも店舗展開をしている。
横川駅
①JR 1897年(明治30年)9月25日 - 山陽鉄道 広島駅 - 徳山駅間延伸時に開業。
②広島電鉄 1917年(大正6年)11月1日 - 広島瓦斯電軌(広島電鉄の前身)横川線開業。現在の横川駅付近に横川駅前電停、その先に三篠(みささ)電停が設置。
③横川駅国産乗合バス発祥の地。
(引用・参考文献:安芸門徒・水原文雄著 近代真宗の展開・熊田重邦著 瀬戸内歴史散歩.瀬戸内の仏教・有田篤雄著
東広島歴史辞典・渓水社 ウィキペディア)
おまけのアトム

自分と同じくらいの大きさか自分より小さい子とは仲良く遊べてしっぽも下がりません。
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