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9月のブラアリタのレジメ。

2017年09月07日
レジメって言葉をちゃんと知らなかったもので、ググったらフランス語だった!

レジュメ(レジメ)は、要約や摘要を意味するフランス語のrésuméをカタカナ書きした外来語。英語ではsummaryにあたる。企画発表の会議や講演会などで、言葉がたどたどしいうえにまわりくどくて要点がつかめない発表者の言うことを聞かずにすみ、退屈だったら居眠りしていてもすむように、要点をまとめた冊子のことである。
※注! 有田さんのお話は要点が掻い摘んであり分かりやすく勉強になります。




さて、二か月に一度の有田さんに郷土史を聴きながら広島をぶらぶら歩く会「ブラアリタ」のレジメを先に頂きました。
今月は第四水曜の午後です。どなたでもどうぞ。
会費200円(テキスト代含む)と1ドリンクオーダーをお願いします。雨天決行です。






ブラ有田平成29年9月27日レジメ
(袋町→小町→大手町→富士見町竹屋町→新天地→堀川町)


(1)袋町小学校平和資料館1 
原爆により外郭のみを残し廃墟。数日後には、被爆者の避難場所・救護所、本校児童・住民等の安否を尋ねる場となり残ったチョークで煤けた壁に「伝言」を記した。袋町小学校は老朽化、平成14年(2002)被爆した「西校舎」の一部を広島市立袋町小学校平和資料館として保存、壁に残された「伝言」や爆風で歪んだ地下の鉄製のドア等を永久に保存することになった。 

(2)見真講堂 
広島別院復興計画の一つ。敷地は広島地区労から買戻す。戦後に教区立として開校した広島音楽高校の講堂も兼ね、昭和37年広島市中区中町に完工。約一億円(地元財界.刑務作業での賞与金を贈った死刑囚等の浄財)を費した。親鸞聖人の大師号をとって見真講堂と名づけた。

(3) 頼山陽旧邸跡
① 山陽の親である頼春水・頼梅颸夫妻ら頼家が暮らした旧居。「頼山陽居室(寛政12年(1800)脱藩を企て上洛、京都で発見され、広島へ連れ戻され廃嫡のうえ自宅へ幽閉され3年間は著述に明け暮れ『日本外史』の初稿が完成)」は国の史跡。
②広島頼家から寄贈された資料・通称『杉ノ木資料』、竹原頼家から寄贈された資料、その他県内収集家から集められた山陽を中心とする江戸時代の広島の文化・歴史資料とがある。
④山陽の女性関係:淳子 (廃嫡後離婚) 梨影(京都で再婚。安政の大獄で処刑された頼三樹三郎は三男) 平田玉蘊(江戸後期の四条派の画家。尾道生まれ。
山陽の想われ人として知られる。山陽との結婚を信じて京都へ来るが挫折) 江馬細香(江戸後期の女流漢詩人・画家。美濃大垣藩医の娘。頼山陽に漢詩を学ぶ。頼山陽の愛人であったことでも知られる)

(4)白神社
① 主祭神:菊理媛神(『日本書紀』伊弉諾・伊弉冉両神の黄泉の国での仲立ちをした女神) 伊弉諾(いざなぎ)尊(みこと) 伊弉冉(いざなみ)尊(みこと)
②白神社のある中町一帯がまだ海であった頃、神社のある地点は海面から突き出た岩礁で、海難事故を防止するため、当時の船人により岩礁上に白い紙がたてられ、白紙に代わる守り神の象徴として祠が建てられた。祠は「白神(しらかみ)」と呼ばれ、住民の信
仰を集めた。
③天正19年(1591)広島城を築いた毛利輝元により新しい社殿が建立。城主の氏神、広島城下の総産土神(そううぶすながみ)とし、最盛期には近隣の旧国泰寺に連なる広い境内を持つ神社に発展した。原爆により一時焼失し、規模を縮小。境内にある岩石は、広島の三角州形成による海岸線移動の跡を記し、「原爆の熱線により赤く変色した岩石」や「被爆した楠」などには被爆の跡が残る。

(5)旧国泰寺
① 文禄3年(1594)、安国寺恵瓊が現在地に臨済宗の寺院「安国寺」として創建。本堂建立に際しては朝鮮出兵で恵瓊が持ち帰った材木が使用された。開基時においては現在の愛宕池跡付近が海岸線で南には広島湾が広がっていた。
②関ヶ原の戦い後、福島正則の弟・普照が入寺すると、国泰寺(寺号の由来は国泰寺殿前太閤相国雲山俊龍大居士=秀吉の法名による)と改められ同時に曹洞宗に改宗。
③浅野氏の帰依を得て同家の菩提所となり、この地域における曹洞宗15ヶ寺の触頭の任に当たった。広島藩5ヶ寺の一つ。寛永11年(1634)までに境内から南の海面が埋め立てられると、新開地はこの寺にちなみ「国泰寺村」と命名された。③第1次長州征伐に際しては、幕府軍の総督府が置かれた④明治期に入って明治6年(1873)から明治9年まで広島城三の丸から県庁仮庁舎が寺内に移転。
④初めての公立小学校が寺内で開校⑤原爆被災で寺は全焼全壊し、境内の大楠も根元から倒壊した。原爆被災から己斐移転。

(6)戒禅寺
①浄土宗大黒山護念院
②永禄元年(1558)毛利氏の時代、広島県高田郡吉田町城山の麓に、源蓮社性誉法山上人(後の浄土宗大本山黒谷金戒光明寺第廿一世法王)により開山された。慶長年間(1596~1615)広島城築城に伴い、広島西魚屋町(現在の袋町)に移転。明暦3年(1657)大火類焼により現在地、新川場(現在の小町)に移る。焼失した戒善寺跡地は、山号由来の大黒天の袋をとって「袋町」と命名された。
③明治政府の学制領布により戒善寺境内にあった寺小屋が小学校となり、現在の「袋町小学校」。
④昭和20年(1945)原爆投下により壊滅、檀信徒の協力のもと、昭和44年(1969)現在の本堂客殿を再建された。(説明板)

(7)普門寺
①曹洞宗寺院で山号は八屋山、本尊は毛利家由来の聖観世音菩薩、広島新四国八十八ヶ所霊場、第六十九番。『知新集』によると古くは観音坊と呼ばれ、天平12(740)年に藝州吉田村に開基し、毛利時代には打越村、広瀬村と転々としたとある。
②福島正則の時代に至って現在地に移転され、「八屋山普門寺」と名付けられた。毛利輝元は、久しく子どもに恵まれず、お堂に通って祈願すると、嫡男となる秀就(長州藩初代藩主)を授かった。(H.P)
③普門寺のしだれ桜

(8)長遠寺
① 山号は無量山。本門宗(現.日蓮本宗)京都要法寺の末寺。開山の日堯上人は、紀州和歌山の出身で広島藩主浅野長晟公が紀州在住の時より親交があり、広島入国に際し請われて寺域を賜り元和5年(1619)建立された。原爆により七堂伽藍は焼失したが、板曼荼羅御本尊、日蓮聖人木像は疎開し焼失を免れた。(長遠寺資料より)
②鈴木三重吉墓碑
③飯田篤(あつ)老(おい)(広島藩士. 『知新集』編者. 俳諧を学び頼山陽、小林一茶との交遊もあった)の墓碑。

(9)春和園跡
①国泰寺村真菰(まこも / 現在の中区国泰寺町)の現・市庁舎北隣付近に所在していた庭園。1844年藩主より執政・今中相親に下賜、頼春水等により広島の名勝とされた。
②日清戦争の際に広島で行われた第一次講和会議に出席する清使節の宿泊所にあてられている。その後1908年には同じ敷地に市公会堂が建設され、1934年には南隣の市立高等女学校跡地に広島市庁舎が移転してきた。第二次世界大戦中の建物疎開により取り壊された。

(10)禅林寺
①山号は萬松山。福島正則の時、尾張海国寺五世高厳和尚を迎えて開山、臨済宗妙心寺派。
②三宅春齢(種痘の発見者で浅野藩の御殿医)の墓。
③上田宗箇(丹羽長秀、秀吉の配下。関ヶ原の戦いでは西軍に属した。浅野長晟の広島移封に伴って客老として広島に入国。政治のかたわら茶の湯(茶道は千利休、古田織部の門下)を楽しみながら、縮景園や禅林寺の築庭等を指揮)の菩提寺として慕われ広大な寺領地を有し大いに隆盛を極め、芸州藩臨済宗の最高峰として栄えていた。原爆により一切の建物は焼失し、墓はその後修復された。(禅林寺の由来より)

(11)東本願寺別院
① 石山本願寺退城、教如は雑賀から大和.近江を経て天正9年(1581)近江慈敬寺証智(蓮如の孫:妻は元就の娘)とその長男教智(輝元の従弟)を連れて安芸に姿を現し教如の妻も仏護寺に落ち着いている。)輝元は、教如の為に円証(一心)寺を建てたが、翌年寺は教智のものとなった。
②東西本願寺分離で、円証(一心)寺の教智は東本願寺派に属し、後に教智は隠居寺の明信院に移り、円証(一心)寺の息子が無断で西本願寺派に転派、怒った教智は息子を
義絶・追放し円証(一心)寺はなくなった。教智死後、明信院は安芸における東本願寺派の中心寺院となり現在は中区宝町に移転し真宗東派広島別院となっている。明信院の下寺の常念寺(日本に3幅しかない「真向の御尊像」がある)と因伝寺は明信院の輪番を務めた。

(12)竹屋地蔵尊 
①平田屋川に架かる竹屋橋近くに鎮座されていたが、原爆投下後、富士見町の平和大通り緑地帯に移された。竹屋地蔵を北端とし南への通りが「じぞう通り」と名付けられた。
②坐像の左右の花筒には「文化12年(1815)己丑((つちのとうし、きちゅう))二月」「新久屋長三郎奉納」あり、石柱には「賽銭箱 明治40年(1907)旧八月」と刻まれている。夜泣き地蔵・首なし地蔵とも呼ばれ、竹屋地蔵地蔵盆が行われている。 (H.P.ひろしまぶらり散歩・H.P.じぞう通り振興会参考)
(キリシタン新開) (福島時代 宣教師コーロスは、慶長9年(1604)広島教会を建て、場所は広島城下田中町の毛利家家臣佐世与三左衛門元嘉の旧屋敷(田中二軒屋敷. 江戸時代は石川丈山の住居)で、広島協会によりキリシタン(竹屋)新開にライ病病院も建てられた。)

(13) 福昌山 慈善院 圓隆寺(とうかさん)
① 元和5年(1619)、浅野長晟が僧・慈善院日音上人を開山に招聘して創年の夏祭りの名称でもある「とうかさん」は、当寺の鎮守で、法華経を守護するとされる稲荷大明神のことで、稲荷を「とうか」と音読みしたのがその語源。建立と同時に、日音により「稲荷(とうか)大明神」が勧請され、神力は広島城の守りは言うに及ばず城下庶民への功徳救施は安寧と繁栄をもたらしたと伝えられる。戦時下でも「とうかさん大祭」は開かれ、1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下により全壊焼失。1946年(昭和21年)再興。
②原 惣右衛門元辰の墓)赤穂義士「原 惣右衛門元辰」は「とうかさん」を熱烈に信仰していた。元禄16年(1703)惣右衛門切腹後第5代藩主浅野吉長は惣右衛門の子(惣右衛門切腹の時3歳)が成長し播州で浪人しているいるこ
とを知り、妻子を広島に呼び寄せ、嫡男「原惣八郎辰正(重次郎)」を広島藩では享保8年(1725)20人扶持で召し抱え後に250石に昇給した。惣右衛門の妻も熱心に「とうかさん」を信仰していたことから享享保18年(1733)妻が亡くなり、惣八郎は両親の墓を建立。原爆投下後、都市区画整理法により寺領を大幅に縮小した当山は、墓地を再建するにあたり一家に墓石一基と定め、原家も原惣右衛門夫妻の墓石を原家の墓と定めた。

(14)新天地紅花稲荷大明神
①広島新天地:本通りの東端に大正10年(1921)に出来た繁華街。映画館(新天地倶楽部.日進館)・劇場(新天座)・飲食店が軒を連ねた。周辺道路は入り組んでいたが、太平洋戦後、区画整理され新天地広場(現アリスガーデン)が作られ戦後間もなく公園にお好み焼きの屋台が集まり「お好み村」と言われた。
②紅桃稲荷大明神(新天地商店街の商売繁盛の守護神) とうかさんのいとこになると言われる。原爆の時、ご神体は疎開していた為被災は免れ、現在の所に移転した。東新天地駐車場上の公園に再興された。

(15)胡子神社
① 御祭神は蛭子(ひるこ)神・事代主神・大江広元公(毛利家の始祖)の三柱が三位一体となったえびす神としてお祀りされ、商いを営む人だけでなく、福の神として多くの人々に崇敬されている。
②「えびす講」で知られる中区胡町の胡子神社は、江戸時代には西光寺という寺の中にある神社で、胡堂と呼ばれた。西光寺と胡堂は、毛利氏の時代、高田郡吉田(現在の安芸高田市吉田町)から高宮郡古市(現在の安佐南区古市。江戸時代の村名は中筋古市村)へ、その後さらに城下の西引御堂町へ移転し、福島氏の時代に胡町に移動したとされる。広島藩が編纂した「知新集」では、慶 長8年(1603))町の年寄役銭屋又兵衛と大年寄松屋太郎右衛門が、吉田の胡堂に祀られていたえびす神を現在の地に勧請したのが創始という。江戸時代の広島城下町に、東引御堂町・西引御引御堂町は現在の中区胡町・銀山町・堀川町一帯を、西引御堂町は現在の中区十日市町・広瀬町一帯を指す町名である。西引御堂町から
分離して東引御堂町と胡町(現在の中区胡町)が城下南東に成立して市の町となったとされ、東西の引御堂町はもともと西引御堂町の位置に一つの町として存在してした。
③えびす様を祀る神社に関しては、中世において市が立てられる際、市の商工業者等によって市神として勧 請 されることが多く、当時の人々にとって市とは神を招いた特別な場であり、市神を中心とした一定の区域が市の範囲になったことなどが指摘されている。(しろうや広島城より)

(参考文献 広島歴史街道散策くらぶ散策メモ  瀬戸内歴史散歩 文責 有田 篤雄)


◎急な参加でも大丈夫ですができればご予約の連絡をお願いします。







おまけのアトム

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