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7月のブラ有田のご案内とRachidまたね。

2017年07月13日
5月半ばから日本にホリデーで来ていたラシードが今朝帰って行った。

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 これは、十年前のラシードとカズヒ。↑
パディントンのラシードのお姉さんの家に遊びに行った時かな。


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長崎のグラバー邸でもらってきたチラシじゃと。

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二か月のジャパン滞在でアトムと仲良しになっているね。
ごきげんよう~







7月のブラアリタのお知らせ

7月19日(水) AM10:00 カモメのばぁばぁ集合
暑い時期なので今回は、第三水曜の午前中二時間歩きます。
あんまり暑い時は早めに切り上げるそうです。
雨天決行
参加費  600円(テキスト+1ドリンク)
できればご予約を! 予約なしで急に参加されても大丈夫です。どなたでも!


ブラ有田の七月のレジメです。


(だいおくの鼻→猿猴橋→金屋町→京橋→西国街道→胡子神社)

(1) 松原大元稲荷大明神
・慶安元年(1648)広島日光東照宮造営の時に祀られたと伝える。広島駅中央出口付近にあったが戦後現在地に鎮座。・松原の地名由来:猿猴橋東詰の西国街道との交点から鳥居までの参道筋には約500メートル規模の並木が存在した。神社創建時に参道にはマツが植えられたが、マツ並木は枯れたことにより西国街道側1/3がマツ、残り2/3の神社までがサクラ並木となった。マツ並木は東松原と呼ばれ南区松原町の由来である。サクラおよびマツ並木は江戸時代の天明年間(1795年頃)の地図に記載され参勤交代の際に東照宮に参拝した大名が通った。並木は原爆被爆により全滅した。

(2) だいおくの鼻
・京橋川(古代に西岸を佐伯郡.東岸を安芸郡、中世は佐東郡と安南郡と画し重要な河川)と猿猴川(古来猿猴=河童伝説)の分岐点、通称デビ。台屋町は江戸時代から昭和40年の町名で、町内の浄土宗源光院が開山時に台屋寺と呼ばれたことに始まる(知新集)。京橋町・的場1~2丁目となった。
・京橋雁木群:土木学会から「選奨土木遺産」に認定。裏木戸では日常生活として洗濯や、小舟が雁木の階段から生活物資を陸上げしていた。

(3)秀玉稲荷神社 ・由緒書によると、広島城ができる前から、農耕の守護神として崇敬されていた。1555年ころ京橋川と猿猴川の分岐点の治水用築堤工事、段原比治山新開地に農業用水を引く工事がおこなわれ、その際の事故犠牲者を堤の守護霊として、後に秀れた魂の持ち主という意味で秀玉の神号を奉り祭祀が行われた。

(4)猿猴橋
・最初の架橋は安土桃山時代、広島城下の西国街道に架かり,広島の「東の玄関口」として交通の要衝。大正14年6月に着工された猿猴橋は,鉄筋コンクリート連続桁となり,橋台には地杭52本,橋脚にはケーソン基礎を施工したほか,表面には石張りをあしらい美観にも配慮した。総花崗岩造りの高欄には,巨大な親柱・束柱も備わり照明燈まで内蔵されるという重厚なもの。親柱上に施されたブロンズ製の大鷹や,束柱上のシャンデリア風の電飾燈,高欄には橋名の由来ともなっている,2匹の猿が桃を持ちあう透彫り風のデザインパネルがはめ込まれるなど,絢爛豪華な橋。戦火が激しくなる中,金属回収令によってこれら装飾品は供出され,被爆するものの原形をとどめた。「被爆に耐えた装飾的橋梁」として,平成23年度に土木学会において土木遺産に選奨された。往時の姿を復元しようと、平成20年7月に「猿猴橋復元の会」を発足。寄付金活動を行いながら,広島市に橋の復元を働きかけ,四隅の親柱に設置された、地球儀をつかんで羽ばたく大鷹の像(左写真)と、欄干の桃を掲げる2匹の猿の装飾などが復元された。

(5)浄念寺・浄土宗、寺紋と葵の紋が掲げてある徳川幕府は上野寛永寺(天台宗)と芝増上寺(浄土宗)を鬼門封じにして大切にしたことから広島城下には浄土宗寺院が多く建てられた。浅野藩士・山中権八郎の墓。

(6)妙詠寺 ・顕本法華宗。広島を代表する ツバキ寺。浅野光晟の 乳母だったお好(よしの)局(つぼね)の 菩提寺として 建立され小町にある 本照寺の 住職だった日椿(にっちん)上人が 妙詠寺を開山した。
・近藤芳美(当山先代夫人の甥。広島第二中学校.旧制広島高等学校.東京工大建築科卒。中村憲吉.土屋文明に師事。戦後の歌壇を牽引する歌人として活動、文化功労者に選ばれた。長年「朝日歌壇」(朝日新聞)の選者を務めたことで知られるほか、建築家としての顔も持つ。)歌碑=川浅く なりたる街を 今日も行く 夕べ寂しき 広島の街

(7)法正寺
・真宗大谷派(広島別格本山明信院)・加藤友三郎 }文久3年 (1863)~大正12年(1923)明治大正期の海軍軍人・政治家。広島藩士加藤七郎兵衛(広島藩校学問所教授)の子.兄加藤種之助の養子となり家督相続。藩校・修道館等で学ぶ。明治13年(1880)海軍兵学校卒業,22年海軍大学校卒業。広島県初の総理大臣。日清戦争(1894~95)で「吉野」砲術長として豊島沖海戦などで功績を残す。日露戦争(1904~05)では連合艦隊参謀長として旗艦「三笠」の艦橋にあって日本海海戦(1905)の陣頭指揮に当たった。呉鎮守府司令長官。日本の国力を自覚しワシントン会議では,首席全権として軍縮条約などを締結し英米両国との建艦競争休止に努めた。同郷の船越隆義(船越衛の子)を養子とし家督を譲る。

(8)稲生神社
(創建)元和5年(1619)浅野長晟が勧請 (御祭神)豊受(とようけの)大神(おおかみ):商売繁盛・五穀豊饒 大国主大神:縁結び・家内安全・健康・平癒 稲生武太夫(三次実録物語・稲生物怪録に登場。三次藩御徒歩組に属した武士で後に広島藩士。寛延2年(1749)相撲取りの権八と三次の比熊山での肝試しや百の妖怪話からの妖怪退治で有名。全国を武者修行した))公霊神 :攘災・厄除・勝運・招福 ★享保18年(1733)大火災が発生し周辺で稲生神社と大工・忠七(稲生神社の世話役)の家のみ類焼を免れたことから「火災除け」の神様としても信仰されている。★昔は「稲荷」「稲生」の二つの社があったといわれている。★昨今の妖怪ブームで前述の荒俣宏や京極夏彦、水木しげるも調査に訪れている。

(9)稲荷大橋
・1912年(大正元年)11月に、現在の広島電鉄宇品線の一部となる広島駅前から紙屋町を経由して御幸橋に至る区間が開通。現在地の京橋川に電車専用の「稲荷町鉄橋」が架けられた。当時の主要幹線筋は上流側の京橋であり、車両や歩行者はそちらを渡っていた。1945年(昭和20年)8月6日、原爆被災、爆心地から1.35kmに位置。レールは曲がり枕木は数本焼けたが落橋はせず、下流側の柳橋が落橋してしまったため避難者はここを渡って東方向へ逃げ、橋の下では、無数の死体が浮かぶ川に、水を求める人が殺到した。広電職員などにより復旧工事が行われ、同年12月には本線が全線復旧した。1950年(昭和25年)、戦後最初の電車併用橋として現在のものに架け替えられた。

(10)広寂寺
・開基は教伝(武田刑部少輔信隆末子)が時宗から天文2年(1533)証如上人に帰依し浄土真宗に改宗。武田氏滅亡後、4代願西が明星院村から現在地に本堂を建立。願西は石山合戦で戦死。仏護寺の末寺。6代宗傳が真倉坊から広寂寺に寺名を改めた。・三業惑乱で使用された書物「横超金剛碑」は広寂寺で印刷され全国に配られた。版木は大切に保管されている(知新集)。

(11)京橋
・最初の架橋年度は1591年。広島城開城のころ橋名の由来は、「京都へ続く橋」から命名された。西国街道筋の橋であり、その後国道筋の橋であった。1894年(明治27年)、日清戦争勃発、広島城内に広島大本営が設置され東京から行啓してきた明治天皇は広島駅からこの橋を通り大本営へ入った。金属製の飾りはその後、太平洋戦争中に金属類回収令によって1943年(昭和18年)には取り外され、その後は石造りの本体だけとなったが原子爆弾投下の際にも落橋を免れ現存している。2011年(平成23年)、土木学会選奨土木遺産に選定された。

(12)市杵島神社 ・江戸時代に勧請された。昔は京橋川の西一帯は柳の茂る川辺で「明神の浜」といわれすぐ西の廣教寺の境内社として栄えた。宗像三女神。厳島神社「管弦祭」と同時に奉斉を行なわれ、管弦祭に行く御供船と護岸上の提灯の灯明が川辺に映えた。・明治時代には芝居小屋「明神座」が置かれ広島駅前の松原繁華街とともに栄えていた。

(13)石見町西国街道道標
・江戸時代、城下新町組「岩見屋町」とも言われた。毛利氏時代は武家屋敷、浅野氏入国の頃は町屋となった(知新集)。「石見町」の道標に矢印がつけられ西国街道が方向を変えたことを示している。

(14)ウエセン・昭和9年頃、上仙製作所が創業60周年を迎え店舗を建て替え、赤ちゃんの栄養素「米の母ちち粉」を新発売したとある。

(15)広島藩牢屋敷 市中の牢舎((イ)油屋町: 現在の広島市中区十日市町一丁目、猫屋町、本川町一丁目または(ロ)中島地方町: 広島市中島新町から(ハ)上流川町内西側(西牢): 白島通りを越えた八丁堀側へ移転した。三越辺り)と②城内の牢舎(三の丸牢=第三郭南門内の西側: 現在の「ひろしま美術館」がある敷地の一角だと思われる。)の二つに分かれていたと思われる。『広島県史 近世1』『新修広島市史 第3巻』

(16)仏壇通り 元和5年(1619)紀州から浅野長晟が広島に入封の折、隋従してきた職人41名の中に位牌細工師・絵物細工師等が含まれてこれらの職人が仏壇製造に生かされた。享保元年(1716)藩主に男子誕生を明星院に祈願堂を建立し明星院の僧が京都・大阪で高度な仏壇仏具の製造技術を学んで帰り地元の工匠に製造させ技術が確立した(三村松ホームページ)。

(17)胡子神社
・御祭神は蛭子(ひるこ)神・事代主神・大江広元公(毛利家の始祖)の三柱が三位一体となったえびす神としてお祀りされ、商いを営む人だけでなく、福の神として多くの人々に崇敬されている。江戸時代の広島城下町に、東引御堂町・西引御堂町という町があり東引御堂町は現在の中区胡町・銀山町・堀川町一帯を、西引御堂町は現在の中区十日市町・広瀬町一帯を指す町名である。広島藩が編纂した「知新集」では、慶 長8年(1603))町の年寄役銭屋又兵衛と大年寄松屋太郎右衛門が、吉田の胡堂に祀られていたえびす神を現在の地に勧請したのが創始といわれる。西引御堂町から分離して東引御堂町と胡町(現在の中区胡町)が城下南東に成立して市の町となったとされ、東西の引御堂町はもともと西引御堂町の位置に一つの町として存在したことがわかる。「えびす講」で知られる中区胡町の胡子神社は、江戸
時代には西光寺という寺の中にある神社で、胡堂と呼ばれた。西光寺と胡堂は、毛利氏の時代、高田郡吉田(現在の安芸高田市吉田町)から高宮郡古市(現在の安佐南区古市。江戸時代の村名は中筋古市村)へ、その後さらに城下の西引御堂町へ移転し、福島氏の時代に胡町に移動したとされる。えびす様を祀る神社に関しては、中世において市が立てられる際、市の商工業者等によって市神として勧 請 されることが多く、当時の人々にとって市とは神を招いた特別な場であり、市神を中心とした一定の区域が市の範囲になったことなどが指摘されている。東引御堂町・胡町の場合も、新たな市の町を成立させるにあたり、町人が西引御堂町から西光寺・胡堂を移転したことが考えられる。 (しろうや広島城より)

(参考文献 広島歴史街道散策くらぶ散策メモ よしじま歴史散歩くらぶ散策メモ 瀬戸内歴史散歩 文責 有田 篤雄)





おまけのアトム

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