The meeting about the experience of atomic bomb since 1945.
2009年08月03日
広島には被爆者が沢山おられる。
もう、亡くなられた方も沢山おられる。
先日絵本の読み聞かせに来てくださった梅本さんは、被爆者の文や詩を読むボランティア活動もしておられて、被爆体験者でもある友人の土橋さんと、カモメのばぁばぁで、今日お話会をしてくださった。

There are a lot of victims of atomic bomb in Hiroshima.
Many victims already died.
We were allowed to hear the story of the atomic bomb experience today.
戦争を体験した方たちが高齢化して、悲惨な体験を語る人がますますいなくなってきた今、私たちが聞いたり伝えたりしていかなくてはいけないと思う。
全くのボランティアで、日曜日にカモメまで来て体験記を読んでくださったお二人に感謝します。
3月末に99歳で逝った、私のばあちゃんも被爆体験の手記を80歳の時に書いて残しており、一緒に読ませてもらいました。
ばあちゃんの長女である私の母も被爆者で、子宮を取り、乳を取り、胃を取り、最後は脳や全身にガンが回ってのた打ち回るように苦しんで58歳で死んだものだから、そういう文を読むのは辛くて途中で読めなくなってしまった。
側にいた姪っ子が代わって続きを読んでくれたばあちゃんの体験記を載せます。
--- 原爆の日の思い出 ---
水山 イツコ
昭和二十年八月六日、思い出すのもいやな日。
当時私の家は小さな藁葺き屋根の家で、家族は祖母に私ら夫婦、子供九人、それに疎開してきた二人の合計十四人が同居していました。主人は大工でしたので、家屋疎開で義勇隊としてあの日は天神町(今の平和公園)と言っていた所に出かけ、原爆にあったのです。
家を出るとき(七時ごろだったでしょう)、生後八ヶ月の子供の顔を覗き込むようにして、空襲にはよく気を付けるようにと言って出て行きました。
長女は学徒動員で市内宇品の方に行き、長男・次男は長束国民学校へ、三女は中学へ行き、三男・四女は仲良く表の部屋で遊んでいたのです。四男・五男は双子で、二人に裏の部屋でミルクを飲ませていたのです。
その時、家の中で火が出たのではないかと思うほど明るくなり(八時十五分頃)、そのとたん立ち上がろうとしたら頭の上にタンスが爆風で倒れかかりました。二人の子供は私のお腹の下にいたのであとずさりで引き出し、前の方に行こうと思えば三男・四女は泣き泣きすがりついてきました。
家の中は天井ははがれ、ふすまは外に飛び出しました。
小学校の方を見たら長男・次男が首の方に火傷をして帰ってきました。
その次に疎開して来ていた娘の子が帰ってきましたが、市内にいたのに見た目には火傷もせず無事な姿でよろこびました。しかし、二ヵ月後には頭の髪がなくなり、身体全部がはれあがり、血を吐いたりして亡くなりました。
はっきりは思い出せませんが、午前十時頃から市内の方から火傷をした人が次々と帰られるようになりました。大芝町(あの頃は新庄でした)に主人の妹がいたのですが、それら一家が避難してきました。皆あっちこっち火傷をして血を流していました。でもどうすることも出来ず、じゃがいもをおろし金ですりおろし、塗りつけたり水で洗ったりしていましたが、長女や主人の帰りが遅いので心配で心配でたまりませんでした。主人は機敏な人でしたから必ず帰ると信じていました。
夜になり家の外に立ち続けていたとき、長女の方が帰ってきました。二人とも涙で言葉も出ないほど泣きつづけました。
でも主人は夜が明けても帰りませんでした。
七日の朝早く主人の友人が見え、「六日の夕方に現場に行って見ようと思い出かけたが、市内は火の海で行かれず、今見に行ってきたのだが」と言って金槌の頭を持ってこられて、「これが水山君のだと思って持ってきた」と言われ、「行って見てならいっしょにいく」と言って頂き、すぐに出かけていきましたが、新庄橋の方まで行き足は立ちすくみました。
広島市内は何一つ無く、横川橋一つ見えただけで、全市が焼野原、川の中には死体が数限りなくあり、本当にたくさんな死人でした。
足が前に出ない様でも気持ちは主人のいる現場へ早く早くの思いで必死で現場に着いたのですが、覚悟はしてきたもののあまりにもむごい姿に涙も出ないほどでした。
死体は全部黒こげで、主人だと見きわめる事は出来ませんでした。
全部が全部手足は焼け、胴体だけがあお向けに倒れ、お腹の上に出ていたにぎりこぶしぐらいの物体はおそらく腸だと思います。身体は軽石のように穴があいたかっこうでした。
私は、金槌が落ちていたと言う死体の骨をひろって主人と信じて合掌して帰りました。
その後の生活は想像におまかせします。
私は、最早八十歳ですが、二度と戦争はいやです。
孫子の代まで戦争は永久に有ってはなりません。

もう、亡くなられた方も沢山おられる。
先日絵本の読み聞かせに来てくださった梅本さんは、被爆者の文や詩を読むボランティア活動もしておられて、被爆体験者でもある友人の土橋さんと、カモメのばぁばぁで、今日お話会をしてくださった。

There are a lot of victims of atomic bomb in Hiroshima.
Many victims already died.
We were allowed to hear the story of the atomic bomb experience today.
戦争を体験した方たちが高齢化して、悲惨な体験を語る人がますますいなくなってきた今、私たちが聞いたり伝えたりしていかなくてはいけないと思う。
全くのボランティアで、日曜日にカモメまで来て体験記を読んでくださったお二人に感謝します。
3月末に99歳で逝った、私のばあちゃんも被爆体験の手記を80歳の時に書いて残しており、一緒に読ませてもらいました。
ばあちゃんの長女である私の母も被爆者で、子宮を取り、乳を取り、胃を取り、最後は脳や全身にガンが回ってのた打ち回るように苦しんで58歳で死んだものだから、そういう文を読むのは辛くて途中で読めなくなってしまった。
側にいた姪っ子が代わって続きを読んでくれたばあちゃんの体験記を載せます。
--- 原爆の日の思い出 ---
水山 イツコ
昭和二十年八月六日、思い出すのもいやな日。
当時私の家は小さな藁葺き屋根の家で、家族は祖母に私ら夫婦、子供九人、それに疎開してきた二人の合計十四人が同居していました。主人は大工でしたので、家屋疎開で義勇隊としてあの日は天神町(今の平和公園)と言っていた所に出かけ、原爆にあったのです。
家を出るとき(七時ごろだったでしょう)、生後八ヶ月の子供の顔を覗き込むようにして、空襲にはよく気を付けるようにと言って出て行きました。
長女は学徒動員で市内宇品の方に行き、長男・次男は長束国民学校へ、三女は中学へ行き、三男・四女は仲良く表の部屋で遊んでいたのです。四男・五男は双子で、二人に裏の部屋でミルクを飲ませていたのです。
その時、家の中で火が出たのではないかと思うほど明るくなり(八時十五分頃)、そのとたん立ち上がろうとしたら頭の上にタンスが爆風で倒れかかりました。二人の子供は私のお腹の下にいたのであとずさりで引き出し、前の方に行こうと思えば三男・四女は泣き泣きすがりついてきました。
家の中は天井ははがれ、ふすまは外に飛び出しました。
小学校の方を見たら長男・次男が首の方に火傷をして帰ってきました。
その次に疎開して来ていた娘の子が帰ってきましたが、市内にいたのに見た目には火傷もせず無事な姿でよろこびました。しかし、二ヵ月後には頭の髪がなくなり、身体全部がはれあがり、血を吐いたりして亡くなりました。
はっきりは思い出せませんが、午前十時頃から市内の方から火傷をした人が次々と帰られるようになりました。大芝町(あの頃は新庄でした)に主人の妹がいたのですが、それら一家が避難してきました。皆あっちこっち火傷をして血を流していました。でもどうすることも出来ず、じゃがいもをおろし金ですりおろし、塗りつけたり水で洗ったりしていましたが、長女や主人の帰りが遅いので心配で心配でたまりませんでした。主人は機敏な人でしたから必ず帰ると信じていました。
夜になり家の外に立ち続けていたとき、長女の方が帰ってきました。二人とも涙で言葉も出ないほど泣きつづけました。
でも主人は夜が明けても帰りませんでした。
七日の朝早く主人の友人が見え、「六日の夕方に現場に行って見ようと思い出かけたが、市内は火の海で行かれず、今見に行ってきたのだが」と言って金槌の頭を持ってこられて、「これが水山君のだと思って持ってきた」と言われ、「行って見てならいっしょにいく」と言って頂き、すぐに出かけていきましたが、新庄橋の方まで行き足は立ちすくみました。
広島市内は何一つ無く、横川橋一つ見えただけで、全市が焼野原、川の中には死体が数限りなくあり、本当にたくさんな死人でした。
足が前に出ない様でも気持ちは主人のいる現場へ早く早くの思いで必死で現場に着いたのですが、覚悟はしてきたもののあまりにもむごい姿に涙も出ないほどでした。
死体は全部黒こげで、主人だと見きわめる事は出来ませんでした。
全部が全部手足は焼け、胴体だけがあお向けに倒れ、お腹の上に出ていたにぎりこぶしぐらいの物体はおそらく腸だと思います。身体は軽石のように穴があいたかっこうでした。
私は、金槌が落ちていたと言う死体の骨をひろって主人と信じて合掌して帰りました。
その後の生活は想像におまかせします。
私は、最早八十歳ですが、二度と戦争はいやです。
孫子の代まで戦争は永久に有ってはなりません。

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