昨日の続き
2008年02月14日
福祉とか大げさなんじゃなくて、助け合うってことについて、この際だから。
イギリスの街角には沢山のチャリティショップがあって、みんなが持ち寄った不要物が販売され、心臓病の人や、恵まれない子供達や色々な施設に寄付される仕組みになっていた。
そういう店で働く人はみなボランティアだそうだ。
有名なOxfam(オクスファム)では、ブライトンのスクールメイトのヤスさん、アイ、ミカや他国の留学生達も学校の後、ボランティアで衣類の整理をしたり販売をして働いていた。
地下鉄の階段の前に乳母車や車椅子の人が来ると家族のように無言で持ち上げ協力しているのを普通に何度もみた。
昨日の記事にKFさんからメールをもらった。
これも勝手に転載 (みなさん、すんませんね)。
私が、今の生業上、担当するAちゃんのお兄さんが書いた作文(…内)を紹介します。
Aちゃんは、中学校の2年生です。
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「意識」
今から約二年前、平成十六年の秋口、東京都のある町で、娘を餓死させたとして母親が逮捕されたという事件があった。小学校から高校まで自宅に娘を隠していたという。僕にはこの事件が胸に深く焼きついた。母が語った、娘を隠していた動機を聞いたからである。「娘は障害をもっていて、世間にだすのが恥ずかしかった」
一体なぜ、障害をもっているからといって、娘を隠してしまうということになるのだろうか。それは、現代社会にそびえたつ、障害を持った人への気持ちの隔たり、いわゆる心の壁によるものだと思う。
僕の妹は、レット症候群という重い障害をもっており、車椅子で生活している。まだまだ、障害をもった人々にやさしく接し、共感し、彼らに微笑みかけることのできる人は、ほんの一握りでしかないと、彼女と生活していると思う節がある。電車に乗れば露骨に敬遠され、町を歩けば冷たい視線をあびる。駅に設けられたエレベーターに、健康な人ばかりが乗って、僕や母のおす車椅子の妹だけが乗れなかったことなど数え切れないほどある。
一昔前であれば、障害をもった子が生まれるというだけで、悪行のバチが当たった、悪魔に取りつかれた、と本当に一家大騒ぎしていたという。そして現在でもなお、その精神が完全にぬぐいきれたとはとても言いきれない。
実際僕の母親も妹の障害がわかったとき、「私が何か悪いことでもした?」と叫び、号泣したという。つまり、障害を持った子はバチである、という考え方が根づいてしまっていたということである。しかしバチなどではないのはいうまでもない。たまたま、ハンディキャップを背負ってしまったというだけで、彼らは当然、障害を持っていない人々と同じように、何かを考え、それぞれに日々を過ごしているのである。
前述したように、現代は、障害を持った子がいると恥ずかしい、また、家系に何か問題があるのではないかと、つい心のどこかで思ってしまうような社会になっているのだと感じる。これが冒頭の事件の母親の心情であり、母親に障害を持った子を持つことは恥ずかしいことであると思わせてしまうような社会に問題があるのだ。
しかし、その根本的な原因は他にある。僕の祖父母や親戚は、妹が障害を持っていても当然のように親身に世話をしてくれて、父や母の相談にも何かとのってくれている。そしてたまたま家の近辺は養護施設が充実しており、そういったことに明るい人とも出会え、苦労しながらも妹は施設の中に溶け込んで生活できている。
つまり、事件の母親は、相談できる親戚や友達があまりおらず、その上経済的な問題もかさなってしまい、必至に悩みぬいた末、そういう行動に走ってしまったのではないかと考える。これは、行政の児童福祉の制度が働かなかった、という事実も然ることながら、やはり、障害を持った子やその家庭を取り巻く環境が、周りの人々の配慮の欠落が、一番の原因ではないかと思う。
自分の近辺にそういった人がいるならば、声をかけたり、公共の場所では障害をもった人々に対する当然の配慮をするべきではないだろうか。社会の人々ひとりひとりが福祉について意識し、もっと大きな単位で動けたなら、社会に根づいている誤った意識もいつかはきっと取り払うことができるはずである。
まずは知ってほしい。世の中には障害を持った人が沢山いて、僕たちと同じように毎日を必死に生きているということを。そして、少しでも彼らに共感し、一足す一が連なってなる、大きな単位の一つになってくれたら、と切実に願う。
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日本の若者達も、自分の将来の見通しが持てないで(縦横の繋がりが、希薄?)悶々としている人達が多いと思います。
一、二昔の友人関係とは、何かが変化してきている中で、ririさんの日記に登場する若者やAちゃんの兄ちゃん見ると、ちょっと安心します。
と同時に、我々の姿勢も問われます。
ニュース観るのが憂鬱だなーって思うこの頃だけど、ちょっとづつ暖かい卵を育てていきたいって思いました。
イギリスの街角には沢山のチャリティショップがあって、みんなが持ち寄った不要物が販売され、心臓病の人や、恵まれない子供達や色々な施設に寄付される仕組みになっていた。
そういう店で働く人はみなボランティアだそうだ。
有名なOxfam(オクスファム)では、ブライトンのスクールメイトのヤスさん、アイ、ミカや他国の留学生達も学校の後、ボランティアで衣類の整理をしたり販売をして働いていた。
地下鉄の階段の前に乳母車や車椅子の人が来ると家族のように無言で持ち上げ協力しているのを普通に何度もみた。
昨日の記事にKFさんからメールをもらった。
これも勝手に転載 (みなさん、すんませんね)。
私が、今の生業上、担当するAちゃんのお兄さんが書いた作文(…内)を紹介します。
Aちゃんは、中学校の2年生です。
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「意識」
今から約二年前、平成十六年の秋口、東京都のある町で、娘を餓死させたとして母親が逮捕されたという事件があった。小学校から高校まで自宅に娘を隠していたという。僕にはこの事件が胸に深く焼きついた。母が語った、娘を隠していた動機を聞いたからである。「娘は障害をもっていて、世間にだすのが恥ずかしかった」
一体なぜ、障害をもっているからといって、娘を隠してしまうということになるのだろうか。それは、現代社会にそびえたつ、障害を持った人への気持ちの隔たり、いわゆる心の壁によるものだと思う。
僕の妹は、レット症候群という重い障害をもっており、車椅子で生活している。まだまだ、障害をもった人々にやさしく接し、共感し、彼らに微笑みかけることのできる人は、ほんの一握りでしかないと、彼女と生活していると思う節がある。電車に乗れば露骨に敬遠され、町を歩けば冷たい視線をあびる。駅に設けられたエレベーターに、健康な人ばかりが乗って、僕や母のおす車椅子の妹だけが乗れなかったことなど数え切れないほどある。
一昔前であれば、障害をもった子が生まれるというだけで、悪行のバチが当たった、悪魔に取りつかれた、と本当に一家大騒ぎしていたという。そして現在でもなお、その精神が完全にぬぐいきれたとはとても言いきれない。
実際僕の母親も妹の障害がわかったとき、「私が何か悪いことでもした?」と叫び、号泣したという。つまり、障害を持った子はバチである、という考え方が根づいてしまっていたということである。しかしバチなどではないのはいうまでもない。たまたま、ハンディキャップを背負ってしまったというだけで、彼らは当然、障害を持っていない人々と同じように、何かを考え、それぞれに日々を過ごしているのである。
前述したように、現代は、障害を持った子がいると恥ずかしい、また、家系に何か問題があるのではないかと、つい心のどこかで思ってしまうような社会になっているのだと感じる。これが冒頭の事件の母親の心情であり、母親に障害を持った子を持つことは恥ずかしいことであると思わせてしまうような社会に問題があるのだ。
しかし、その根本的な原因は他にある。僕の祖父母や親戚は、妹が障害を持っていても当然のように親身に世話をしてくれて、父や母の相談にも何かとのってくれている。そしてたまたま家の近辺は養護施設が充実しており、そういったことに明るい人とも出会え、苦労しながらも妹は施設の中に溶け込んで生活できている。
つまり、事件の母親は、相談できる親戚や友達があまりおらず、その上経済的な問題もかさなってしまい、必至に悩みぬいた末、そういう行動に走ってしまったのではないかと考える。これは、行政の児童福祉の制度が働かなかった、という事実も然ることながら、やはり、障害を持った子やその家庭を取り巻く環境が、周りの人々の配慮の欠落が、一番の原因ではないかと思う。
自分の近辺にそういった人がいるならば、声をかけたり、公共の場所では障害をもった人々に対する当然の配慮をするべきではないだろうか。社会の人々ひとりひとりが福祉について意識し、もっと大きな単位で動けたなら、社会に根づいている誤った意識もいつかはきっと取り払うことができるはずである。
まずは知ってほしい。世の中には障害を持った人が沢山いて、僕たちと同じように毎日を必死に生きているということを。そして、少しでも彼らに共感し、一足す一が連なってなる、大きな単位の一つになってくれたら、と切実に願う。
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日本の若者達も、自分の将来の見通しが持てないで(縦横の繋がりが、希薄?)悶々としている人達が多いと思います。
一、二昔の友人関係とは、何かが変化してきている中で、ririさんの日記に登場する若者やAちゃんの兄ちゃん見ると、ちょっと安心します。
と同時に、我々の姿勢も問われます。
ニュース観るのが憂鬱だなーって思うこの頃だけど、ちょっとづつ暖かい卵を育てていきたいって思いました。
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